宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

映画監督小泉堯史さん

 小泉堯史さんのお話を聞く機会がありました。映画に描く人物は、自分が会いたい人だそうです。そして、これまで、映画に関わりたくないと思ったことはないとも。ある監督のグループにいたときは、合わなくてすぐに辞めたそうですが、黒澤明監督のもとでの助監督はずっとやっていたかったそうです。

 「僕は黒沢さんの助監督でよかったので、自分が監督をやりたいとは思っていなかった」。これは以前にもどこかで読んだことのある言葉ですが、今回は生の声で聞くとこが出来ました。黒澤明監督を、仕事を超えて敬愛されていたことがよく伝わってきました。そういう出会いが、70歳を過ぎても映画を撮ることへの情熱を枯れさせない、映画との付き合い方を培ったのかもしれません。

 黒澤明という監督が何を求めているか、常にそれを考え感じ取ろうと仕事をしてきたそうです。助監督というのは、「自分」が出てしまうと上手くいかないと言っていました。まさに相手を見つめ、相手を感じ取り、相手の言葉を理解し、その場で応答していく。そういう自分を無にする努力を喜びの中ですることで、「出会い」があるのであり、その出会いが次の出会いを生み出していくのでしょう。

 ハイデガーの「世界-内-存在」としての人間の在り様の望ましい姿というのは、そういうことなのかもしれないと思います。その場が、自分を未来へと向けてくれる場であるように、そこで生きられるなら、頽落という繰り返しの生活にはなりません。小泉さんは黒沢監督の助監督という在り様の中で、「世界-内-存在」を充実させる生き方が出来たのでしょう。

 私たちは、教育の中でも社会の中でも、自分の独自性に拘るよう仕向けられています。しかし、独自性は自分の中に探したら出てくるのでしょうか。そうではなく、関係性の中で、対象を見つめ、対象を感じ取り、対象の言葉を聞き取り、その言葉に適切に応答する、応答しようとするときに、おのずとそれぞれの独自性が発現する。それは対象との出会いであると同時に自分との出会いでもある。私たちは、そういう触発し、触発される存在だと思います。「今、この時」に、自らが関わるものと、誠実に向き合うことが、次の一歩を自ずと生み出すのでしょう。自分の中の枯れない生への情熱というのは、そういう風にして紡がれる。

 小泉堯史さんは、黒澤明監督との仕事の中で、それを体得したと感じました。

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          2021年3月28日 知道会館にて

h-miya@concerto.plala.or.jp