宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

人間の尊厳と自立4.介護福祉士養成コースのカリキュラム改正

 2007年の「社会福祉士及び介護福祉士法」の大幅改正で、介護福祉士の誠実義務と資質向上の責務が加わりました。誠実義務では担当する人の「個人の尊厳保持」と「自立した日常生活を営む」ための支援が書かれています。

 社会福祉士及び介護福祉士は、その担当する者が個人の尊厳を保持し、自立した日常生活を営むことができるよう、常にその者の立場に立つて、誠実にその業務を行わなければならない。(第44条の2)

 これら改正を受けて、 2009年と2019年に介護福祉士養成課程における教育カリキュラムが改正されています。求められる介護福祉士像の最初にあげられているのが、「尊厳を支えるケアの実践」で、2009年では12項目が目標とされています。3番目に挙げられている目標が「自立支援を重視し、これからの介護ニーズ、政策にも対応できる」です。2番目が「現場で必要とされる実践的能力」ですので、いかに理念性が重視されているかが分かります。

 「人間の尊厳と自立」という科目は、核となる「介護」という領域をバックアップする「人間と社会」という領域に入っています。ここには他に「人間関係とコミュニケーション」「社会の理解」が科目立てされています。

 「介護」領域をバックアップするもう一つの大きな領域が、「こころとからだのしくみ」です。ここには「認知症の理解」というものが一つの科目として立てられています。認知症介護がクローズアップされていると言えます。

 さらに2019年の教育カリキュラム改正では、求められる介護福祉士像の2009年の1番と3番が一緒になり「尊厳と自立を支えるケアを実践する」になっています。2番目は「専門職として自律的に介護過程の展開ができる」が新たに加わりました。「介護過程」は「看護過程」の介護版といっていいでしょう。

 看護過程とは、1.看護の視点からの情報収集、2.アセスメント、3.看護診断(看護対象となる問題点を導き出す)、4.看護計画(観察➡ケアプラン➡教育・指導)、5.看護実施、6.看護評価です。これはもちろんサークルをなします。

 介護過程では、同じように情報収集し、アセスメントします。このアセスメントは、ICF国際生活機能分類)に基づいてなされます。そして利用者の望む生活に向けて目標を設定して、目標達成のための援助内容と方法を計画立案します。その計画を実施し、評価するというのが介護過程です。ここは、2019年の新カリキュラムで求められる介護福祉士像の2番目に表示されました。2009年の「現場で必要とされる実践的能力」には、3大介護の名残がありましたが、それらは一掃されています。

 2019年の介護福祉士像の6番目には、地域の中で(施設・在宅に関わらず)本人の生活を支える、ということがあげられています。「地域で生きる」ということが明確に出されています。2009年にあげられていた「1人でも基本的対応ができる」は抜けて、チームケアがより明確に規定されています。「個別ケアの実践」(2009年)に関しては、より詳しく規定されています。2019年版では「介護ニーズの複雑化・多様化・高度化に対応し、本人や家族等のエンパワメントを重視した支援ができる」となっています。それと、「制度を理解しつつ、地域や社会のニーズに対応できる」もあげられています。

 以上みてみると、かなり専門職としての色彩が明確に示されていると感じます。これらカリキュラム改正を通して分かることは、実務経験ルートの問題性です。実務者研修が加わっていますが、この内容がどういうものか。それも見てみる必要がありそうです。

「心の哲学」

 心と身体をめぐる問いは、哲学の中心的問いの一つです。心とは何であって、どこにあるのか? この心をめぐる哲学で、私が最初に鮮烈な印象を受けたのがリチャード・ローティでした。彼は、『哲学と自然の鏡』(Philosophy and the Mirror of nature,1979)で「心の発明」という言葉を使っていました。そして「心的なものはなぜ非物質的と考えられるべきなのか」という問いも取り上げていました。

 かつて心理学は哲学の中心をなすものでしたが、1879年にW・ヴントがライプツィヒ大学の哲学部に実験心理学の研究室を設立したことを嚆矢として、現代心理学が独立しました。これ以降、哲学は固有の問題領域を失い、方法論に特化していくことになります。20世紀を通して、分析哲学、哲学的解釈学、現象学などは、方法を意識化した哲学でした。これが哲学の古典研究と並んで、哲学の専門分野の骨格をなしていました。主題とすべき対象分野を持たない、というこの在り方は、私には具体の欠如として、行き詰まりを感じさせるものでした。

 ところで、哲学の古典分野というとギリシア哲学から始まります。ソクラテスプラトンアリストテレスの説を生き方の問題への思索として読むとき、魂という言葉が出てきます。ソクラテスは「魂がどうすればこのうえもなく優れたものになるだろうか」(ソクラテスの弁明』30a-b)をまず第一に考えて欲しいと歩き回って説得している、と言います。それはなぜかと言えば、「最も尊重しなければならぬのは生きることではなくて、善く生きることだ」(『クリトン』48-b)と考えるからです。この魂とは何なのでしょうか。心と同じなのでしょうか。では、心とは何なのでしょうか。理性とか精神とどうかかわるのか、説明しようとすると分からなくなります。プラトンは魂の三分説を唱えました。アリストテレスは魂は人間だけにあるわけではないとして、動物や植物の魂を言いました。

 『岩波講座 哲学05 心/脳の哲学』(2008年)で、心身問題の展開を次のように整理していることに目を開かされました。「魂の発見――いつ誰がどのようにして――」から「魂から心へ――自然=記号としての「我思う、ゆえに我あり――」、「心から脳へ――心的因果は本当に成り立つのか?――」そして「脳から身体・環境へ――エコロジカル・アプローチと拡張した心――」。魂と心をめぐる視点の整理、脳と心の関係、心の問題を身体・環境から捉える視点を整理しておかなければいけないと、気づかされました。

 1970年代からコンピュータ科学の発達に促されるように、心理学、コンピュータ科学、ロボット工学、脳神経科学などを統合した「認知科学」という新しい学問分野が成立します。認知をキー概念とする「認知主義」の見方のもとでは、心の働きは一連の情報処理過程と見なされます。人間の心の在り方について科学者が語りだしたことで、哲学者もまた、心や意識について改めて哲学的に議論する自信を取り戻したと言われます。もちろんその際、「心の哲学」は心理学者や経験科学者の語る内容を明示しつつ、語られるようになりました。

 ではこのような流れの中で、心身問題はどうなったのでしょうか。因果論的機能主義と目的論的機能主義という視点、さらに環境への適応を視野に入れた生態学的観点なども出てきています。1990年代以降は脳科学の発展によって、意識に対する意識主体の一人称的現象学的見方の限定性が、明らかになってきました。

 たとえば盲視という「見えていないが」「見えている」という症例があります。脳の視覚野は、Ⅴ1野(第1次視覚野)からⅤ5野(第5次視覚野)、IT野などからなります。網膜から入った視覚刺激が視床を経て最初に入力されるのがⅤ1野です。このⅤ1野が損傷されると、当然視覚刺激を感受したという意識はなくなります。ところが、例えば、「上方に動く点」を提示して、見えたかどうかを聞きます。当然見えないという答えが返ってきますが、「でたらめでもいいから、どっちに動いたかを示してください」というと、90%以上の確率で正解します。偶然の正解率は50%ですから、明らかに被験者は知覚しているわけです。これは見えたという意識レベルを処理している部位Ⅴ1野と、運動の知覚の中枢であるⅤ5野ルートは、一つだけではないことを意味すると言われます。

 意識の情報処理の経路の複数性は、意識の複数性とその統合の問題を示していると思います。共通感覚とか統覚といわれる問題と繋がるのではないでしょうか。また、意識体験の在り方としては、要素主義的な在り方ではなく、環境や自分の過去の経験を併せ持って意識しています。「世界内存在」という意識の在り方を実現しています。

 意識の問題だけでなく、自由意志・自己決定など「心の哲学」の分野の問題は、脳科学認知科学生態学などとの絡み、あるいはもっと実践的分野との絡みの中で展開していくのではないかと思います。

すわ!3.11再来か!

 昨日(13日)の夜、11時8分の地震は大きかったです。11日から12日にかけて、東京五輪パラリンピック組織委員会森喜朗会長の辞任と後継指名問題で、ワイドショーは持ちきりでした。それが今日は、地震のニュースでもちきりです。イヤー、何が起こるか分かりません!

 震源は福島沖で、マグニチュード7.1、福島と宮城では震度6強を記録したようです。昨年から「宏観異常現象」といわれる動物の異常行動が太平洋に面する場所で観察され、大地震が心配されていたようです。宏観異常現象と地震の関係は、科学的にはまだ解明されていないそうですが、海底プレートが動くことによって高周波が発生し、生物の方向感覚を狂わせた可能性が指摘されています。

 昨年11月10日頃から一週間くらい毎日、千葉県九十九里浜の海岸、約10キロにわたって、ハマグリが大量に打ち上げられ、22日茨城県東海村震度5弱地震が発生しました。夜の7時6分頃ですが、私は確か車を運転中で、あまり強く感じませんでした。ともあれ、過去の様々な地震で動物の異常行動や自然界での不可思議な現象が発生していることから、宏観異常現象と地震の関連性を探る研究が進んでいるそうです。

 今回は津波が起こらなかったのが不幸中の幸い。しかし、福島も宮城も、やっと3.11から10年、と思った矢先での出来事。私もまたか、と瞬間思いました。何とも言葉もありません。地震は喉元を過ぎてはいない、と改めて思いました。

「科学的とはどういうことか」

 これは板倉聖宜さんの本の題名でもあります。『科学的とはどういうことか いたずら博士の科学教室』(仮説社)を読み始めました。なかなか面白いです。でも、そもそもなぜこういう問いが出てきたかというと、介護の専門職としての定義づけを考える中で、「専門職とは、科学的理論に基づく技術の体系を持つものであること」(仲村優一)という文言に出会ったからです。仲村優一さんは著名な社会福祉学者です。

 「科学的理論に基づく技術の体系」というのは、経験則にのみ拠らない専門的知識・技術を言っています。技術とはそもそも知識に基づく制作ですが、そこにあえて科学的理論に基づく技術と定義することで、専門性を打ち出しています。

 じゃあ科学的ってどういうことなのでしょうか。板倉さんの本は取りあえず置いておいて、信原幸弘さんが物語りを科学と対比して考察している部分を紹介しておきます。信原さんは、物語にはフィクションとノンフィクションがあるとします。ノンフィクションは事実を語りますが、その語り方は科学とは異なります。

 物語には登場人物がいて、その行為が語られますが、科学は人間の行為を描きません。科学は人間の行為を描くにしても、物体が自然法則に従うのと同じ描き方をします。物語の人間の行為は、理由や信念、感情をともなった行為です。

「科学が描く世界は事物が因果的な法則に従って変化していくだけの世界である。あるいは、因果的な法則が不明な場合は、事物が偶然変化したとされる世界である」(信原幸弘『情動の哲学入門』勁草書房、225頁

 次に挙げられているのが物語りの視点性と科学の無視点性です。科学は「どこでもないところからの眺め」(トマス・ネーゲル)を描いているというのです。さらに、物語の視点性は必ず評価的なものを含んでいます。視点には事実認識的な視点と評価的な視点があります。この評価的視点を欠くと、事実報告であって物語とは言えないと言われます。

 まとめると、科学の持つ法則性(因果律に従う)と無視点性は、誰でも予想し、実験し、観察し、検証できるという再現性を意味します。「誰が」は重要ではなく、「何が」「どのように」には法則性があり、誰でも再現できるし、説明可能ということです。

 この考え方を使って先ほどの定義を考えるとどうなるでしょうか。介護の対象である日常生活や日常生活動作の支援に、科学的知見に基づく技術で対応する、ということはどういうことでしょうか。要介護者は人間であるという点で単一ですが、その人の日常生活というのは独自性に満ちています。単一なものは科学の対象になりますが、独自なもの、ユニークなものは科学の対象になりません。独自性とどう向き合って必要性を看てとるのか。ここの部分は科学の対象以前のもの、あるいは別の姿勢で向き合う必要がある気がします。

現実と個人の理想との軋轢の中で生じる「問い」

 晴れていますが、今日は寒いです。昨日も午前中は曇っていて寒かったですが、午後になって陽が差してきて、少し暖かくなりました。夕方からはまた冷え込んできて、今日は寒いです。窓越しに見る景色は、陽が差していて暖かそうですが、ちょっと外に出ると途端に寒くて震えが来ます。明日からは日中は気温が上がるというので、やれやれです。『早春賦』の出だし、「春は名のみの 風の寒さや」は、今の季節を的確に表現しています。

 歌の力というか音楽の力は、私たちの日常生活と結びついています。ネットサーフィンをしていたら、陸上自衛隊の歌姫鶫真衣さんの演奏を映すYouTube動画に行きつきました。そこから、海上自衛隊の歌姫三宅由佳莉さんの歌声に聞き惚れました。彼女の歌う秋桜には思わず感情移入してしまいました。歌い出しのピアノシモでもはっきりと聞き取れる歌詞、それが盛り上がる後半。上手いなぁ。

 平成30年の自衛隊音楽祭の入場行進や退場行進の美しさ。能の所作を思わせるような動きでした。自衛隊の音楽隊に入ってくる人たちには、音大卒の人たちが多いようです。鶫さんもプロの声楽家になるための過程を辿っていたようです。それが、三宅さんの歌声を聴いて、自衛隊に入隊したとか。

 自衛隊音楽隊の役割を調べると、Wikipediaには次のように載っていました。

  1. 隊員の士気高揚のための演奏
  2. 儀式のための演奏
  3. 広報のための演奏
  4. 必要に応じ、指揮所の警備

音楽隊を志望する人たちの多くは、音楽が好きで音楽を仕事にしたい人たちなのではないのかと思います。自衛隊という組織の在り様、そこで音楽隊に要求される目標はもちろん教育され、理解していると思いますが、その出発点は「音楽が好き」だと思います。

 組織の目的とそこで仕事をする個々人の思いは必ずしも一致しません。しかし、恐らく組織の持つ風土的なものは、個々人に浸み込んでいきます。それを各人がどう自分の物語りにしていくのか。芸術を志す人たちと、自衛隊という国際法上は軍隊の扱いを受ける組織とは、どうも違和感があります。

 しかし芸術と現実の権力は近いです。宗教と音楽や絵画、彫刻の関係はすぐに思い浮かびます。また芸術を政治的に効果的に使った例としては、ヒトラーが思い浮かびます。芸術には人の心をつかむ力があります。それゆえに、昔から芸術には為政者がパトロンとしてついていました。

 芸術とは何か。それは組織に属したり関わったりして仕事としているアーティストが時に問わざるを得ないものだと思います。「~とは何か」という問いは、芸術に関わるだけでなく、仕事に従事する者なら、どこかで問わざるを得ない問いだと思います。それは個人の思いと組織の論理が完全に一致することなどありえない以上、当然の問いです。これに自分なりにその都度の答えを出しながら、私たちは自分の仕事や社会、自分の生き方の物語りを編み上げていくのかなぁと思います。

 私にとっての問いとは何か。一杯あります。一つは「介護ケアとは何か」です。教育に携わる者としては、「教育とは何か」ですが、このままでは問いが大きすぎます。この問いをもっと具体化できるかどうか。その他にも、「人間の尊厳と自立とは何か」「科学的とはどういうことか」「共感とは何か」等々。問いはつきません。これらの問いは、現場の現実と自分の思い・理想との軋轢の中で浮かび上がってきたと思います。

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       2020年2月17日撮影。今年は初めて梅まつり開催が延期。

ハイデガーのSorge(関心・気づかい)1.

 ハイデガーの『存在と時間』(1927年)は、存在そのものへの問いを現存在(人間)を通路として問う、というものです。そのために、彼は実存哲学者に分類されますが、彼の問いの本質は「存在」とは何かと言うことでした。ハイデガーの存在そのものへの問いは、存在するもの゛das Seiende” への問いではなく、存在するものを存在させるところの存在゛das Sein” とは何かという問いでした。

 これは、ソクラテスの「徳とは何か」の問いを思い起こさせます。ソクラテスが問題としたのは、諸々の徳ではなく、徳を徳たらしめるものは何か、ということでした。どういうことか。例えば「勇気」というもの。通常私たちは「勇気がある」ことは徳を身につけていると考えます。しかし、冷徹な暗殺者(ゴルゴ13)は臆病とは無縁です。勇気は臆病の反対と、やはり私たちは考えています。では、ゴルゴ13は勇気ある人と言えるのでしょうか。どうも違和感があります。これが勇気を徳たらしめるものは何か、(通常言われる)徳を徳たらしめるものは何かという問いなのです。

 さてハイデガーの現存在(人間)は存在論的には関心・気遣い(Sorge ゾルゲ)であり、「世界に対する現存在の存在は、本質的に配慮(Besorgen ベゾルゲン)」と言われています。そして現存在自身は、「〔気を配られ〕配慮されるのではなくて、〔気づかい世話をする〕顧慮(Fürsorge フュアゾルゲ)のうちにある」と言われます。

 ハイデガーを単純にケアの哲学者ということはできないと思います。しかし、ケアとは何かを哲学的に解明するとき、ハイデガーの現存在分析から、示唆されることは大きいのではないでしょうか。ケアは実践的側面が前面に出ますが、その根本のところを押さえないと、単なる技術的方法論になります。現在の介護職が、日常生活動作の支援に明け暮れてしまっているように。

 ハイデガーの現存在分析は手ごわいですが、少しずつ考えていきたいと思います。 

人間の尊厳と自立3.社会福祉基礎構造改革

 2012年に介護福祉士養成校で授業を受け持ったとき、「倫理学」ではなく「人間の尊厳と自立」になっていたという話は、最初に書きました。テキストを渡されて、福祉サービスの提供は、措置から利用者の主体的利用(契約)に変わった、というようなことを読んで、「そうなんだ」と思ったことを覚えています。同時に、どれだけの利用者に主体性を期待できるのだろう、という疑問も持ちました。

 2007年の「社会福祉士及び介護福祉士法」の大幅改正によるカリキュラム改正が行われて、「人間の尊厳と自立」が科目になりましたが、この流れの背景にある社会福祉基礎構造改革についてまとめておきたいと思います。

 社会福祉基礎構造改革は、1951年(昭和26)に社会福祉事業法が制定されて以来維持されてきた、社会福祉制度の基本的枠組みを抜本的に改革する試みでした。1998年から関連法律等が一度に改正されました。これら一連の改革を、社会福祉基礎構造改革と言っています。

 少子高齢化核家族化の進行、女性の社会進出、経済成長の鈍化、社会福祉に対する国民の意識変化などが、改革への社会的状況変化として挙げられます。戦後の生活困窮者対策を前提とした社会福祉制度は、20世紀末から21世紀にかけて、国民全体の生活の安定を支える制度へと変換を余儀なくされていたということです。一言でいえば、「措置から契約による利用」へと、社会福祉サービスの供給方法を変えるものでした。この社会福祉の構造の基礎部分を変えるのは、政府の財政改革(財政支出の縮小)を福祉の分野でも実行するものでした。

 福祉サービスという表現は、1951年(昭和26)6月1日施行の「社会福祉事業法」で既に使われています。この法律は、2000年(平成12)に、内容も改正されていますが、「社会福祉法」と名称を変更されました。

 基礎構造改革は上手くいっているのでしょうか。評価の難しさが言われますが、第1点の問題は、措置制度の廃止による公的責任の後退が引き起こす問題の解決がうまくいっているのかどうか、です。第2点は、本当に利用者の要求を満たすサービスの質の向上が実現しているのかどうか。第2点に関しては、サービス量の不足を補えているのかどうかも問われます。サービス提供者の拡大によって、サービスの質にばらつきが出ているのは事実です。この評価を誰がどうやって行うのか。施設などの場合、利用者や家族による評価は難しい部分があります。

 施設に関して「レモン市場問題」は存在すると思います。レモンはアメリカの俗語で質の悪い中古車を意味します。レモン市場では売り手は取引する財の品質をわかっていますが、買い手は財を購入するまでその品質を知ることができません。ですから買い手は安さを追求し、結果売り手も質の良い財を市場に出すことを諦める。その結果、市場には質の悪い財だけが出回ることになる。

 ネットオークションもこの危険があると言われましたが、マイナス評価ではなくプラス評価を付けるやり方によって、レモン市場にならないで済んでいると言われます。しかし、施設に関してはこれができるのかどうか。家族が施設を見学したり、時折訪問したからと言って、本当に分かるのかどうか。施設の内部事情はそれほど外部に出回りません。客観的に分かるのは、立地条件や建物の在り様、値段、介護者の数の比率などです。サービスの質自体は、入って見ないと分からない部分が大きいです。かつ入居者・入所者さんに認知症状が出ている場合、彼らが評価するのには無理があります。

 サービスの提供量の問題もあります。この絡みで、介護福祉士の試験ルートは実務経験者にも開かれています。しかし、現場で介護福祉士としての理念まで学び取ることができるのかどうか。技術は確かに現場経験を積む必要がありますが、その前に、介護とは何か、介護福祉士の目指すものは何かをどうやって学び取っていくのか。現場の忙しさの中で、そういう理念的なものを考えたり、学ぶ時間は取れるのでしょうか。いまだに介護とは3大介護(入浴・排泄・食事の支援)である、というところで現場は止まっている気がします。それはまた、一般の介護のイメージでもあります。

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                 2019年2月20日のお雛様(採録         

h-miya@concerto.plala.or.jp