宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

人間の尊厳と自立2.介護とは3大介護のことか?

 「社会福祉士及び介護福祉士法」(1987年制定、1988年施行)は2007年に大幅に改正されています。改正は大きく4点あります。①定義規定の見直し、②義務規定の見直し、③資格取得方法の見直し、④社会福祉士の任用・活用の見直しです。現場等で一番話題になるのは、③です。まあ、それはそうですね。

 しかし、法改正は養成教育の改正に繋がり、カリキュラム改正もなされます。当然試験内容にも反映されて行きますが、実務経験ルートで国家試験を受験する場合、改正内容は試験のために覚える内容に留まる気がします。現場での経験は、改正前からの介護士の考え方で動いています。それはどういうものか。いわゆる3大介護と言われるものー入浴・排泄・食事―を主とした身の回りのお世話が介護である、という考え方です。

 1987年に介護の専門職として介護福祉士が資格化されました。この背景にあるのは、介護を家族の問題として対応しきれなくなった社会の構造変化です。少子高齢社会、核家族化、女性の社会進出等によるの社会の構造変化です。

 老人福祉に関しては、1963年に老人福祉法が出来ています。これは高齢者全般を対象にしているわけではなく、身寄りがいなかったり、生活困窮状態の高齢者が対象でした。いわゆる措置の時代です。ここでは「入浴、排泄、食事等の介護、その他の日常生活上の援助」が中心です。3大介護(入浴、排泄、食事)を通した日常生活支援です。

 1987に制定された「社会福祉士及び介護福祉士法」でも介護福祉士の定義は、「専門的知識・技術をもって、入浴、排せつ、食事そのほかの介護等を行うことを業をする者」でした。老人福祉法の考え方を継承していたわけです。これが2007年の法改正まで、定義として定着していました。そして、いまでも介護というと、一般的に「入浴、排泄、食事」を中心とした生活のお世話というイメージがあります。現場もこれで回っていると言っていいと思います。人手不足もあり、ここの部分に対応するだけで手一杯とも言えます。ただ問題は、介護福祉士を含め介護士自体が、介護を3大介護で捉えているところにあります。

 2007年の法改正では、介護福祉士の定義が次のように変わりました。「専門的知識・技術をもって、心身の状況に応じた介護等を行うことを業とする者」。この定義の改正は、もともとの介護の本質規定に近いものになっていると思います。この改正の背景には、1990年代から2000年代にかけての社会変化に対応すべくなされた「社会福祉基礎構造改革」があります。これについては別に書きたいと思います。

 横山孝子さんが「生活支援専門職としての介護福祉士養成カリキュラムの検証」の中で、専門職としての介護福祉士は「人間らしい生き方を支えるための問題が何ものかがわかる力量」をつけること、を指摘しています。彼女はこの論文の中で、ケアワーカー(介護職を英語にするとこうなります)を、ソーシャルワーク社会福祉の実践)の視点を持ちながらもっと直接的・具体的なサービスの提供者と捉えています。

ケアワークは、ソーシャルワークとしての視点を持ちながら、さらにその視点をサービス提供者の生活問題に対して専門的技術・専門的知識・価値/倫理を基礎とした社会福祉実践活動として、直接的・具体的なサービスのレベルまで具現化できる専門職として位置づけることができよう。(39頁)

 しかし、介護福祉士養成の最初のカリキュラムを検証していくと、家事援助の内容が主であって、「日常生活」という生活自体の捉え方には至っていないと指摘されています。老人介護サービスのスタッフの量的な確保が最優先であって、かつすでに家事援助業務に従事していた職種(寮父母、ホームヘルパー、家政婦等)を踏襲する形で、多様な背景を持つ人々を対象に受験資格の範囲が設定されています。

 日常生活の支援というのは、事柄が身近であるゆえに、誰にでも出来そうなイメージがあります。しかし、介護福祉士が専門職である以上、その専門性とは何かが問われるし、問われ続ける必要があります。介護福祉士養成の始まりにおいて目指されていたものは、「生活援助ではなく生活動作援助としての実践家と言い換えることができよう」(42頁)という横山さんの指摘はとても納得がいきます。

 介護福祉士養成のカリキュラムは、当初は高齢者介護サービスのスタッフ要請を目指し、かつ介護福祉士の定義にあるように身体介護に照準をあてたものでした。私が1997年から2005年まで倫理学を担当していた時期のカリキュラムは、この方針に沿ったものです。

 2007年の法改正でカリキュラムも変わりました。2009年から適用されたものと2019年度から順次導入されているものについて、次に見ていきます。

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          利用者さんたちの壁画作成の一場面(2020年5月2日)

ニーチェ『ツァラトゥストラ』9:「精神とは自ら生に切り入る生」

 『ツァラトゥストラ』の中で、精神について書かれている言葉で一番私が引きつけられているのが、以下の引用の部分です。第二部「著名な賢者たちについて」に出てきます。そして、採録的に第四部の「ヒル」にも出てきます。

 精神とは、自ら生のなかへ切って入るところの生である。それは、みずからの呵責において、自らの知を増大させるのだ、――きみたちはすでにそのことを知っていたか?

 「きみたち」とは、著名な賢者たちのことで、彼らは(あるがままの)民衆の奉仕者です。Z-Nもまた、その存在の根源をなすのは民衆ですが、Z-Nは、あるがままの様相の民衆を肯定しません。彼は民衆存在への徹底的な批判によって、自己超克としての精神が構想する人間の真に根源的な在り方(超人)を追求します。

 吉沢伝三郎さんは『ツァラトゥストラ』の訳注で、精神や認識は「生の本質である権力への意志の一契機ではあるが、生の自己矛盾であるような契機」という言い方をしています。どういうことか。認識は物事を確定しますが、生の本質である力への意志は生成です。その意味で精神(認識)は「生の自己矛盾」の様相を持ちます。

 現実に起こっていることは流動しています。認識は、それを固定します。確かにその意味で、生成と精神(認識)は互いに排除し合います。何かについて「~である」と言った途端に、別の様相がその表現から抜けだしていくのを感じます。ただニーチェがここで言おうとしていることは、精神の、生の本質である力への意志の生成・創造性・流動性に対する、固定という様相の葛藤状態のことだけなのかどうか。私なりにこの表現に読み込んでいるものがあります。認識という行為、言葉を解釈していくという行為は、血を流す作業(生に切りいる生)でもあるのでは、ということです。

 言葉とは何なのか。世界を切り取るやり方とまず捉えておきます。私たちはことばを習得することで、世界の見方やそこでの対処の仕方を学びます。ここで世界には、モノ・環境・ひとが含まれます。言葉を理解するということはどういうことなのか。母語の理解は私たちの認識の仕方の形成と軌を一にしているので、それがどういうことか分かりにくい部分があります。母語を獲得した後の外国語の学習の方が、言葉の獲得のプロセスを追い易いかもしれません。

 さて、言葉を使っての解釈という行為は、生成の世界に自ら楔を打ち込んでいくことなのでしょう。何かを表現しようとするときに言葉を探す過程には、もどかしさや苛立ちやもやもや感などがあります。語られている言葉を真に理解していく(これもまた解釈)ときにも、生のなかに切り込んでいくことが必要であり、それは痛みを伴います。その痛みはどこから来るのだろうと思います。生の現実に切り行っていくとき、生の現実の豊饒さに圧倒されながら、なにかを固定しようと格闘する苦しみなのでしょうか。教えられて自分の中に固定している意味を、微調整しようとする軋みの苦しさでしょうか。

 理解が喜びの中で生じているとき、それでもその認識は「生に切り入る生」であり、痛みの中での知の増大なのでしょうか。

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      2017年3月5日 那珂市郷土民俗資料館「つるし雛展」(この写真は採録です)       

春を先取りするネコヤナギ

 今日は空気は冷たかったのですが、晴れていて、部屋の中は暖かでした。今日で1月も終わりです。今月はお花の会は中止です。コロナの影響で、公共の研修室が借りられませんでした。2019年と2020年の1月のお花の会で生けた写真を見てみると、どちらもネコヤナギを使っていました。昨年の1月に活けた濃い紅色のアルストロメリアは別名ユリズイセンです。2019年の青いデルフィニウムは、ギリシア語でイルカを意味するDelphisから来ています。つぼみの形がイルカに似ているからですが、花としては忘れな草に似ているなぁと思います。

 ネコヤナギは2月から4月にかけて咲きますが、春に先駆けて咲いている感じがして嬉しくなります。猫の尻尾のような花穂からネコヤナギと言われますが、すがすがしさとユニークさを感じます。1月の終わりから2月の初めにかけて生けてみたくなる花材の一つです。今年は、叶いませんでしたが。写真を見ているうちに、明日あたり、ネコヤナギを手に入れて水仙と生けてみようかな、という気になりました。

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     2019年1月30日のお花(ネコヤナギ、コデマリ、チューリップ、デルフィニウム

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      2020年1月31日のお花(ネコヤナギ、スイトピア、アルストロメリア、シダ)

感情的対応

 木曜日は夕方から雪混じりの雨になりました。あまりの寒さに、もっと重ね着してくればよかったと思いながら、図書館に本を返しに行きました。すぐ退館するつもりが、本のタイトルを読んでいるうちに、何冊かピックアップして借りてきました。4月からの授業のために、「心・魂」についてと、情動(感情)の意義についての本を借りてきました。

 社会心理学戸田正直さんの『感情:人を動かしている適応プログラム』の最初のあたりで、感情の本来の機能について次のように書かれています。

環境状況に応じて適切な状況対処行動を個体に選択させることによってその生き延びを助けることと考えられる。

  環境は、野生環境と文明環境では問題の質が異なり、それゆえ適切な状況対処行動も異なります。まだ読み始めたばかりなので、理解が間違っているかもしれませんが、野生環境の場合、本当の意味での「新しい」状況はめったに起こりません。その意味で、長い歴史的時間の中で、適切な対処行動を遺伝子レベルで完成させていくことが可能だったのではないか、というのです。そして、感情はこの対処行動を始動させていく役割を担っているのではないか、と。

 アサーションにおいて、自己表現には三つのタイプがあります。一つ目は非主張的・受け身的なもので「私はOKでない、あなたはOK」という態度です。もう一つがそれと対をなす攻撃的なもので、「私はOK、あなたはOKでない」という態度です。アサーティブな態度とは、「私はOK、あなたもOK」で、相手を責めない伝え方が「わたし文(アイ・ステートメント)」です。

 アイ・ステートメントとは、例えば、子どもが夜に大きな音で音楽をかけているときの対処法で説明するとこうなります。つい私たちは「何時だと思っているの。近所迷惑だし、うるさくて何もできないでしょう!」と強い口調で叱りつけます。アイ・ステートメントだと必ず「わたしは」が入ります。「夜に大きな音は他の人に迷惑だと、お母さんは(お父さんは)思うよ。仕事があるし、音のボリュームを下げて欲しいんだけど」と。

 何かに怒りを感じるとき、私たちは「私は~に怒りを感じる」と自分の気持ちを、「私」を主語にして表現すると、ワンクッション置くことができます。それをしないと、「誰が」の部分が一般化されてしまって、自分の怒りの正当化に走ります。自分にとっては妥当な怒りも、他の人にはそうではないかもしれない、という批判的な見方が出来なくなります。

 感情的になっているとき、私たちは攻撃的になったり、極度に被害者意識に捉われて萎縮します。攻撃的になるのは「私」の「怒り」が引き金になっていると考えられます。こう考えると、アサーショントレーニングは、人間の感情的対処行動が文明的環境の中で出す軋み音への対処法なのでしょう。

 感情的対応は、私たち人類にとって根源的な状況対処行動と結びついていると考えると、人間関係を難しくさせると同時に面白くもさせているものでもあることが分かる気がします。もっとも個人的に苦手な関係はやはり苦手でしょうが。

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          2021年の正月の海:「海は広いな大きいな」

人間の尊厳と自立1.科目成立を考える

 これは介護福祉士の試験科目の一つです。私が最初に介護福祉士養成校で受け持った授業は、「倫理学」でした。1997年から2005年まで担当しましたが、次に2012年に再度受け持った時、担当科目名は「人間の尊厳と自立」になっていました。この科目名の仰々しさに圧倒された覚えがあります。「人間の尊厳」と言われると、やはりイマヌエル・カントに思いが行きつき、「自立」と言われると、自律・自立で人間の自由意志の問題との関係で、やはりカントに思いが行きます。「えー」と思ったことを覚えています。テキストが送られてきて、内容を見ていくと、憲法基本的人権思想をベースに展開されていました。

 授業科目の改正はカリキュラムの改正と関係があり、カリキュラムの改正は法律の改正と関りがあると思って、調べ始めました。始まりは、「人間の尊厳と自立」をどう教えるのか、それが今一つとらえきれていない、という思いからでした。「人間の尊厳」って何?という自分の中での問いです。自立というと、自由の問題、応用倫理系でいう自己決定権の問題というのは、ピンときます。しかし、認知症を発症している人を考えたとき、自立をどう捉えるのか、教えているときも迷いがありました。人間の尊厳、それを、どう伝えるのかその本質の部分の「言葉」が見つかりませんでした。今、直観しているのは、「みんなちがってみんないい」ということなのではということです。

 介護福祉士は、1987年5月26日に公布され、翌88年4月1日から施行された「社会福祉士及び介護福祉士法」に基づく国家資格です。介護福祉士の国家資格化は、「介護」の社会化の流れの中で必然性をもって生まれました。資格法制定時の介護福祉士養成カリキュラムでは、一般教育科目と専門科目と実習(演習)に分かれていました。私の担当した倫理学は、一般教育科目に当たります。人文科学系、社会科学系、自然科学系、外国語又は保健体育のうちから4科目、120時間という枠での実施でした。

 その後、2007年に法律は大幅に改正され、①定義規定の見直し、②義務規定の見直し、③資格取得方法の見直し、④社会福祉士の任用・活用の見直しが行われました。2012年4月1日からは、喀痰吸引や経管栄養等の医療行為が、介護福祉士や一定の教育を受けた介護職員にも実施できるようなりました。資格取得方法に関しても改正されています。

 法律の改正がカリキュラム改正にどう反映しているのか。「倫理学」(結構手ごたえを感じながら教えていました)が「人間の尊厳と自立」に変わった意味が、そこから見えてくるのか。そして、現場で自分なりに感じ取った「人間の尊厳」の「一言でいえば」(大学院時代の恩師が授業でよく発した質問です)が妥当かどうか、そこを検証してみたいと思っています。

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     「ご長寿クラブ高場」で利用者さんたちと一緒に作った壁画

義務と責任

 緊急事態宣言が、東京都・千葉県・埼玉県・神奈川県の1都3県から、栃木県・岐阜県・愛知県・京都府大阪府兵庫県・福岡県の7府県に追加で出されました。11か国・地域との間で例外的に認められていたビジネス関係者の往来も停止。新規入国者も原則認めない方針になりました。緊急事態宣言と往来停止期間は2月7日までです。

 これらはほとんど強制力のない要請です。国民に注意を促すための宣言ですが、これは政治家の国民に対する責任から生じると言っていいのでしょう。では、国民はこれに対しどのように対処すべきなのか。それとも「すべき」はないのか。

 まず、義務と責任は同じでしょうか。義務を引き受けて(誰かや何かに対し)責任を全うするということはあります。義務や権利には、一般的に「人間としての」という言い方ができますが、責任がくっ付くと、特定の人やものとの関係になってきます。「人権や(人権から派生するものとしての)人間としての義務というものはあっても、すべての人が負うべき『人間としての責任』という範疇は存在しない」(50頁)と、キャロリン・ウィットベックは『技術倫理』(みすず書房)の中で述べています。

 権利とは、その権利を持つものが持って当然であるものを持つこと、それへの正当化された要求、資格、主張のことです。権利という言葉は17世紀になって生まれたもので、人権という考え方が広く受け入れられるようになったのは、18世紀の啓蒙時代のことです。道徳的権利とは基本的人権と言われているものです。

 権利と対をなすのが義務ですが、これはある行動への道徳的要請のことです。何かをしなさい、あるいは何かをしてはいけないという道徳的要請です。責任は応答性を持つもので、自分と関係のある誰かや何かの福利が問題となるときに生じます。

 最首悟さんは、権利は社会レベルだが義務は個人レベルだと言います。権利は社会的に成立しますが、義務は個人に内属するというのです。

 シモーヌ・ヴェイユは、宇宙にただ一人しかいないと仮定するとき、その人間はいかなる権利も持たず、義務のみを有する、と述べています。

 ひとりの人間は個人として考えられた場合、自己自身に対するある種の義務をも含めて、ただ義務のみを有する。これに対して、かかる個人の観点から考えられた他人たちは、ただ権利のみを有する。(『根をもつこと』)

 義務は、例えば他者の人権を尊重する義務は、すべての人間に課せられます。しかし他者の人権を尊重する責任は、もっと限定的にその「他者」と関わる人間に課せられます。

 責任に関して、より普遍性を主張する立場はハンス・ヨナスに見られます。自己決定から責任が生じるという自己責任がありますが、これと区別して、ハンス・ヨナスは滅びゆく「他者」への責任を言います。完全さから程遠い偶然に生じた対象は、現存していると言うだけで「私の人格を供するように私を動かす力を持たなければならない」し、事実そうできるとヨナスは主張します。なぜなら、「こうした現存する存在に対する責任の感情」が経験的事実として存在し、そのリアルさは「最高善を経験する場合の、最高善を欲求するという感情」と同じだと言います。この責任は非対称的見返りを求めない責任であり、その典型として親の子どもへの責任と政治家の責任が上げられています。そして、「客観的責任性と主観的責任感情との合致の基礎的な原型」が、子孫を思いやる自発的な気持ちだと言われます。

 さて、責務の根拠についてハンス・ヨナスは、「責任の対象は、滅びゆくものであり、滅びゆくからこそ責任の対象になる」。なにものかが存在しなければならず、そして人間は責任能力を持っている。責任能力を持つことが、現実において責任を果たしているかどうかに関わりなく、責任を持っていることを意味していると言われます。不確実で滅び行くはかなさをもつ存在(人間を含めすべての存在)が、紛れもなく存在していることを通して、責任の感情を動かすというのです。

 私たちが存在しているということそのことから直接生まれるのは、義務であり責任であるということでしょう。責任を感じるとき、例えば親は子どもに口うるさくなったりします。しかし、責任を果たすのは親であって、子どもは親に対し応答する責任があるのでしょうか。あるいは従う義務があるのでしょうか。

 義務や責任の対象者は、逆に義務や責任を持つ者に対し、道徳的にはどのような対応関係にあるのでしょうか。政治家の責任に対し、国民が有するのは何か、ということです。権利なのでしょうか。しかし、例えば、職場の上司が部下に対して監督責任を持つとき、部下は上司に対して従う義務があるのでしょうか。それは職場規定としてはあるでしょう。しかし原理論として成立する関係なのでしょうか。

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              2021年1月13日平磯海岸 

和魂洋才の現在

 和魂洋才とは何か。和魂漢才という言葉もあるようです。和魂漢才とは、「日本固有の精神を以て中国から伝来した学問を活用することの重要性を強調していう」(『広辞苑』)とあります。どうも「和魂〇才」とは、日本の外来文化の吸収の仕方を表現するものと言っていいのでしょう。

  日本の近代化はヨーロッパをモデルとしましたが、日本にとってのヨーロッパ化、すなわち近代化は欧米からの侵略の脅威に抗するためのものでした。中国文化の吸収の過程でも、危機的事態はあったのかもしれません。ただ、中国文化の吸収は長い時間をかけて、かつ中国からの侵略の脅威とはほぼ無縁に(日本から中国に遣隋使や遣唐使を派遣)進行したのではないでしょうか。

 これに対し、明治期の急激な近代化は欧米列強からの侵略の脅威に抗して、時間的切迫度の中でなされました。当時の明治政府の要人たちには、侵略の恐怖で目が覚めるという経験があったと、犬養道子さんが何かで書いていました。

 ところで、近代化のモデルであったヨーロッパは、あくまで歴史的実体であって、それをそのまま日本で実現することは不可能です。そこで日本のエリートたちは、ヨーロッパを歴史的実体としてではなく、導入可能な機能の体系とみなしたのです。

したがって、当時の日本においては、いわゆる機能主義的な思考様式が非常に強調されたわけです。そういう思考様式の確立を最も推進したのは、福沢諭吉でした。実際は、歴史的実体としてのヨーロッパを機能の体系として捉え直すということには非常な無理があるわけですけれども、とにかく機能の体系としてのヨーロッパは日本独自のものとしてあったと思われるわけです(三谷太一郎『人は時代といかに向き合うか』東京大学出版会、2014年、252頁)。

  この機能主義的な思考様式は、今もあると思います。第2次世界大戦後、日本がモデルとするものはヨーロッパからアメリカへと変わりました。ここでもアメリカという歴史的実体と切り離して、民主主義とプラグマティズム哲学及び実学の伝統を、機能として受け入れようとしたわけです。その結果、目先の経済効果を追い求める風潮が加速したと思います。これはどうも日本の傾向というより、世界的動向ですが。

 心は和魂として別にある、だから技術や知識を効率的に機能として取り入れればよい。というのが和魂洋才の考え方なのでしょう。では和魂とは何か。神道の精神に象徴されるような何ものかなのでしょうか。しかし、一般の人間に神道はそれほど関わっているのでしょうか。今や神棚のない家もあります。祭りもフェスティバル化しています。そもそも心の在り様と技術や知識を切り離すことに無理があります。それは相互に浸透し合い、構築し合うものです。

 「仏作って魂入れず」。日本は、今、そういう在り様をしている気がします。それは、明治以来の機能主義的な思考様式の優等生日本の結末なのかもしれません。

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            昨年12月4日のイソギク 

h-miya@concerto.plala.or.jp