宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

ニーチェ『ツァラトゥストラ』9:「精神とは自ら生に切り入る生」

 『ツァラトゥストラ』の中で、精神について書かれている言葉で一番私が引きつけられているのが、以下の引用の部分です。第二部「著名な賢者たちについて」に出てきます。そして、採録的に第四部の「ヒル」にも出てきます。

 精神とは、自ら生のなかへ切って入るところの生である。それは、みずからの呵責において、自らの知を増大させるのだ、――きみたちはすでにそのことを知っていたか?

 「きみたち」とは、著名な賢者たちのことで、彼らは(あるがままの)民衆の奉仕者です。Z-Nもまた、その存在の根源をなすのは民衆ですが、Z-Nは、あるがままの様相の民衆を肯定しません。彼は民衆存在への徹底的な批判によって、自己超克としての精神が構想する人間の真に根源的な在り方(超人)を追求します。

 吉沢伝三郎さんは『ツァラトゥストラ』の訳注で、精神や認識は「生の本質である権力への意志の一契機ではあるが、生の自己矛盾であるような契機」という言い方をしています。どういうことか。認識は物事を確定しますが、生の本質である力への意志は生成です。その意味で精神(認識)は「生の自己矛盾」の様相を持ちます。

 現実に起こっていることは流動しています。認識は、それを固定します。確かにその意味で、生成と精神(認識)は互いに排除し合います。何かについて「~である」と言った途端に、別の様相がその表現から抜けだしていくのを感じます。ただニーチェがここで言おうとしていることは、精神の、生の本質である力への意志の生成・創造性・流動性に対する、固定という様相の葛藤状態のことだけなのかどうか。私なりにこの表現に読み込んでいるものがあります。認識という行為、言葉を解釈していくという行為は、血を流す作業(生に切りいる生)でもあるのでは、ということです。

 言葉とは何なのか。世界を切り取るやり方とまず捉えておきます。私たちはことばを習得することで、世界の見方やそこでの対処の仕方を学びます。ここで世界には、モノ・環境・ひとが含まれます。言葉を理解するということはどういうことなのか。母語の理解は私たちの認識の仕方の形成と軌を一にしているので、それがどういうことか分かりにくい部分があります。母語を獲得した後の外国語の学習の方が、言葉の獲得のプロセスを追い易いかもしれません。

 さて、言葉を使っての解釈という行為は、生成の世界に自ら楔を打ち込んでいくことなのでしょう。何かを表現しようとするときに言葉を探す過程には、もどかしさや苛立ちやもやもや感などがあります。語られている言葉を真に理解していく(これもまた解釈)ときにも、生のなかに切り込んでいくことが必要であり、それは痛みを伴います。その痛みはどこから来るのだろうと思います。生の現実に切り行っていくとき、生の現実の豊饒さに圧倒されながら、なにかを固定しようと格闘する苦しみなのでしょうか。教えられて自分の中に固定している意味を、微調整しようとする軋みの苦しさでしょうか。

 理解が喜びの中で生じているとき、それでもその認識は「生に切り入る生」であり、痛みの中での知の増大なのでしょうか。

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      2017年3月5日 那珂市郷土民俗資料館「つるし雛展」(この写真は採録です)       

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