宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

ニーチェ『ツァラトゥストラ』2

 今日は阿字ヶ浦クラブで集まりがあり、午後から参加していました。中学生たちが合宿していましたが、「船橋市立海神中学校様」と表示板が立てられていました。ブラスバンド部の合宿だそうです。明日水戸市で行われる大会に出場するとのこと。ビーチにつながる庭に集まってはしゃいでいる生徒さんたちの向こうに、暮れていく海が見えました。

 さて『ツァラトゥストラ』第1部は、1881年8月に「永遠回帰の思想、およそ到達しうる限りの最高のこの肯定の定式」に襲われ、それから18カ月後に成立しました。成立自体が詩的ですが、この本自体、詩的・音楽的なものと言われます。1900年前後の青年たちの心を捉えたものです。もっとも、ガーダマーは、1930年代の青年たちにとってはあまりに仰々しくて、空々しく響いたと書いています。しかし、ニーチェが自らの思想(永遠回帰)をこういう形でしか表現できないと考えたことは事実ですし、そうだろうなぁと思います。

 第1部は10日間で書き上げられ、その最後の部分が書き上げられたのは1883年2月13日、ヴァーグナーヴェニスで亡くなった時刻ときっかり同じだったと書かれています。第1部は6月上旬に刊行されました。そして、6月末から7月初旬にかけてジルス=マリ―アに滞在して、14日間で『ツァラトゥストラ』第2部を完成させます。この第2部は9月に出版されました。そして翌1884年1月、またしても10日間で第3部が書き上げられます。場所はニースでした。ニーチェはこれをもって『ツァラトゥストラ』は完結されたと考えていたようです。第3部は3月末に刊行されています。

 現存の『ツァラトゥストラ』第4部は、別のツァラトゥストラ物語の第1部として構想されたようです。読んでいても、第4部は何かその前と調子が変わっていて、違和感がありましたが、それは別の物語の始まりだったからだと分かると納得します。第4部は1884年秋から書き始められ、途中病気による中断があり、最終的には1885年2月にニースで完成させられました。この第4部は最初私家版として40冊だけ印刷され、7人の友人に送られました。第4部が公刊されるのは1992年になってからで、すでにニーチェは精神に異常をきたした後のことです。

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      8月27日 クルクマ(ピンクの花)・ワレモコウ・クロトン・ポトス

「居る場所」を変えること

 今日で8月も終わりです。7月から新しい施設で働き始めて、あっという間に2カ月が経ちました。老いをどう生きるか、どこで最期の時期を迎えるか、いろいろ考えることが多かったです。

 状況によって、必ずしも自分の家で最期を迎えられないことはあります。それでもできるだけ、地域に根ざした自分の家での生活がベースになることが望ましいのでは、と思います。それを周りがどう支えられるか、そこに課題があります。

 それと本人の周りとの関係づくり。新しい環境に自分から入って行った人たちの方が、上手く行くのかもしれないと思わさせられる例を最近見聞きします。そこには、新しい環境に適応しようとする自分の意志が働いているからだと思います。そういう積極性や自発性は、生き生きとした関係性を築く原動力になるのでしょう。さらに自分のやり方に拘らず、自分を変えて合わせていこうとする部分も当然重要で、年齢を重ねると苦手になっていく部分です。

 幾つになっても、感動することは重要だと思います。場所を変えることはその感動を呼び覚ます、最も効果的な方法なのでしょう。だから旅することは感覚をリセットするのに役に立つわけです。さらに移住となれば、日々発見なのでしょう。もっとも、上手くその場所に適応出来れば、なのでしょうが。

ニーチェ『ツァラトゥストラ』1

 フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ニーチェの主著と言われる『ツァラトゥストラ(Also sprach Zarathustra)』は、1883年2月にその第1部が完成させられました。それに先立つ1881年の夏、スイスのジジルス=マリーア村滞在中に、この書の根本構想である永遠回帰の思想が彼を襲いました。人生への示唆に満ちたこの不思議な書。今、気になっている部分は、精神の三態の変化で、最後が子どもであるところ。そしてこの子どもは「遊ぶ子ども」です。さらに真面目さ批判である重力の精という部分。

 ニーチェザクセンに生まれました。元々の家系は商人。しかし祖父と父はルター派の牧師です。父親はプロシアへの篤い愛国心を持ち、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世を敬愛し、同じ誕生日に生まれた長男であるニーチェの名前につけました。父親はニーチェが5歳のとき亡くなります。弟ヨーゼフも父の死後数か月で、2歳で亡くなりました。父と弟を亡くし、ニーチェはその後、ナウムブルクで、母、妹、母方の祖母、未婚の伯母二人に囲まれて育ちます。

 19歳でボン大学に入学し、神学と古典文献学を専攻。その後ライプティヒ大学に移り、古典文献学の研究に専念。24歳のときに、スイスのバーゼル大学に、文献学の教授ポストに招聘されました。

 ツァラトゥストラとはどういう人でしょうか。ツァラトゥストラとは、古代ゾロアスター教の予言者、ゾロアスターのドイツ語での慣用発音です。ゾロアスター教は、イラン北東部で創始され、主神アフラ・マズダの名を取って<マズダ教>とも、また聖火を護持する儀式から<拝火教>とも言われます。

 ゾロアスターは青年の頃、カスピ湖西南、ウルミ湖畔の故郷を去って、サラバーン山脈に籠ります。そこでアフラ・マズダの啓示に寄って聖典アベスターを書きました。それを携えて30歳ころから布教しましたが、10年間は一人の信奉者を得たに留まったと言われます。

 ニーチェの『ツァラトゥストラ』は、ニーチェの脱ヨーロッパ志向と結びついていると言われます。ニーチェは、プラトン主義とキリスト教というヨーロッパの理想主義が、潜在的に無の上に立てられていてニヒリズムであると批判します。この書の文体の美しさには定評がありますが、1890年まで省みられませんでした。『ツァラトゥストラ』は1890年代の半ば以降、ドイツの文学や思想界に爆発的影響を与えました。

 ニーチェは1889年1月に、イタリアのトリノで精神に異常をきたし、1897年まではお母さんに面倒をみられていました。1900年に彼は亡くなりますが、お母さんの後をついで彼の面倒をみたのが、妹のエリーザベト・フェルスター・ニーチェです。彼女は、ニーチェを宣伝し、ナチスの教義の理論的バックボーンとしてニーチェの思想を使うことに賛同しました。ナチスとのこの不幸な関係に寄って、第2次世界大戦後、ドイツでのニーチェ研究は停滞しました。

 現実と思想との関係の難しさを感じる事例の一つです。

 

五浦

 16日から一泊で、五浦観光ホテル本館に泊まってきました。建物は古かったのですが、五浦の湯は素晴らしかったです。庭園露天風呂に浸かって、滝を模した作りから出る水音を聞き、セミの声や潮騒に耳を傾けながら夜空(残念ながら16日は曇りで星空ではありませんでした)を見上げてぼーとしていると、疲れが取れていくのが分かりました。仕事の後に、こんな時間を毎日持てたら、健康でいられるだろうなぁ、と思いました。

 17日は晴天で暑くなりました。でも五浦湾の眺めは最高でした。天心が惚れ込んだのがよく分かります。

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    手前が六角堂、左奥が天心邸、右にそびえるのが五浦観光ホテル別館大観荘。

 帰りに茨城県天心記念五浦美術館に寄って来ました。岡倉天心と言えば『茶の本』、横山大観らに影響を与えた、くらいにしか覚えていません。日本美術院というのもよく分からず、パンフレットを見ながら、お勉強しました。

 天心は東京美術学校(現東京芸術大学)創立後、その大学院にあたるものを作ろうとしていたようです。美術学校長を内部紛争で退いた後、天心は東京の谷中に日本美術院を創立しました。天心35歳の時です。日本画の革新を試みる若き画家たちが結集しました。その後天心は、ボストン美術館の仕事をするようになり、中国やインドにも出かけています。そして、東洋の文化を欧米に普及させる活動もしています。一方で、日本美術院の活動は、日本画に西洋絵画の光と空気の表現を取り込もうとして、世間からは朦朧体と称され厳しい批判を浴びるようになります。それによって日本美術院は経営困難に陥りました。

 40歳の時に天心は五浦に土地と家屋を求めました。42歳の時、その別荘を新築し、六角堂を建てます。1906年(明治39)、天心43歳の時、日本美術院の第一部(絵画)を五浦に移転します。横山大観、下山観山、菱田春草、林武山の4人の作家たちが家族とともに五浦に移り住みました。当時は「美術院の都落ち」と揶揄されたそうです。作家たちの制作に取り組む姿は、修行僧のような禁欲的で厳しいものだったようです。その後、作家たちの五浦での制作は、文部省主催の美術展覧会(文展)に出品されて脚光を浴びるようになりました。日本美術院の五浦時代です。

 1910年(明治43)に、天心がボストン美術館中国・日本美術部長になり、アメリカと日本を半年ごとに往復するようになると、同院は事実上の解散状態になったと言われます。天心は1913年(大正2)に50歳で亡くなりました。1914年、大観や観山たちは、天心の意志を引き継ぐ形で、谷中に日本美術院を再興しました。

 天心の死は早かったなぁと思います。でもその晩年(49歳の時)、インドの女流詩人プリヤンバダ・デーヴィ・バネルジー(写真で見る彼女は雰囲気のある美人です)と出会い親交を結びます。二人の間の書簡が残っていて、心に残りました。

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老いを生きるちから

 台風10号の影響で、水難事故が相次いでいます。北日本はお盆休みの期間がどうも引っかかりそうです。台風が通過した後は、また猛暑のぶり返し。😥 まあ台風は今までもありましたから、仕方ないと思うものの、猛暑は身体に堪えます。冷房の中から、外に出る瞬間のあのもわっとした暑さのダメージも大きいです。

 高齢期を生きる人たちに接することが多い毎日、そして自分もまた高齢者の仲間入りをしています。日本の一般庶民のイメージは、勤勉でまじめというものではないでしょうか。寿命が伸びて、社会的一線から引いた後の生活は、余生というには長すぎるようになりました。さてそこで何をするのか。それはそのときになって考えても、遅いのですが、そのときにならないと分からないことも多いのが現実です。

 今思うのは、高齢者は社会が大切に保護すればいいというものではない、ということです。かと言って、政府が旗を振るような「働ける人は働きましょう」でもありません。高齢期に大切なのは、他者と共存する力を育ててきたかどうか、楽しむ心を育ててきたかどうかではないかと感じます。そして、教育の中でそういう力を育ててきたのかどうか。

 東京新聞8月3日のインタビュー記事「あの人に迫る」で取り上げられていたのはブレディみかこさんでした。イギリスで保育士として働きながら、多くの著書を書いています。彼女は、英国内で年収・失業率・疾病率が最悪水準と言われる地区の無料託児所で働いています。そこでの体験から生まれた『子どもたちの階級闘争―ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(みすず書房)が、2017年に新潮ドキュメント賞を受賞しています。ご本人は、保育士の方が天職と自負しています。

 彼女の言葉で納得したのは、息子と彼の友人との「それでも友達」関係。友人のダニエル君の差別発言で息子さんとけんかになったりするけど、それでも友達。「大人は『こう言われた、もう知らない』ってなるけど、子どもはなんか一緒にやっていくんですね」。うーん、そうなんですよね。そして大人たちがしたり顔でどうせだめだよ、というような問題も軽く飛び超えていくと思わせてくれる。子どもたちを見ていると、未来はそんなに悪くないと思える、と。私も子どもたちに接しているとき感じるのは、やはり未来に向かう力です。その力をきちんと育てているのか。教育に問われているものだと思います。

 2010年以降、イギリスは保守党政権になってからの緊縮財政で学校は苦しい状況に陥っているそうです。それでも声をあげる訓練を小学生から繰り返し教えると言います。ブレディさんが上げていた、考えの違う相手の立場で考えさせる「シチズンシップエデュケーション」は、生きていく上での基本になる人権教育だと思います。言葉で「相手を思いやる」というだけでは身に付きません。考え方の違う、感じ方の違う他者との共存は、共同生活をするときの基本になるもの。小さい頃からの訓練が大きいと思います。

 共同生活では、相手に合わせればいいというものでもない。自分の立場と相手の立場を調整できる力が、一人ひとりの中に育っている必要があります。そして同時に、「笑い」「遊び」がキーワードとして出てくる。介護施設においてレクリエーションは大切な要素ですが、レクが上手く行くか行かないかには、レクの導入、指導する側と参加者の関係性、また参加者同士の関係性など、さまざまな要因があります。そして、どういう遊びをデザインするのかを考えるとき、高齢者の場合は、発育ではなく「喜び」や「体力維持」だと思います。

 ブレディみかこさんは、保育で大切なことをこう言います。「子どもをじっくり観察してそれぞれの発育を促す遊びをデザインすること」と。それだけに日本の保育現場の「三歳児二十人に保育士一人」という基準に驚いたと言います。安全確保にも足りない気がしますが、確かに私たちには「遊び」の意義を軽視する傾向があります。

 老いを感じるのは身体に色々故障が起きてくるときですが、同時に意欲を失っていきます。遊びとは自発的なものです。遊び上手は老い上手なのかどうか、気になっています。

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            8月7日の風景

「福祉のお仕事フェア」

 今日も猛烈に暑かったです。茨城県福祉人材センターからのお知らせで、ホテルレイクビュー水戸で開催された「福祉のお仕事フェア」に参加してきました。ひたちなか市水戸市以外の法人に関心があったのと、フェアがどんな感じかなと思ったからです。残念ながらフェアへの参加者はそれほど多くはありませんでした。

 興味を持ったいくつかの法人のうち、二つの法人のお話を聞きました。一つは、小美玉市(社会福士法人)敬山会です。子連れ出勤化ということに興味を持ちました。託児所があるわけではなく、子どもたちはスタッフの休憩室やあるいは施設の中で遊んでいて、手の空いているスタッフが面倒を見ているそうです。いいなぁと思いながらお話を聞きました。ここは、基本が身体に障害を持つ方たちの施設です。かなり重度の方たちが入所していて、新人職員にはマンツーマンで教育・指導するプリセプター体制をとっているそうです。これは、重要なことだと思います。法人設立は1992年です。

 もう一つが、石岡市(社会福士法人)滴翠会です。ここのレクリエーションと救護施設慈翠舘(1978年開設)に関心を惹かれて、話を聞きました。レクにはなるほどなぁと思うものが沢山ありました。面白かったのは、救護施設の方から聞いたホームレスの人たちの話です。ホームレスの人たちは、保護されても元の生活がいいと出て行ってしまうというのです。仲間がいて、それなりに回っている生活の方が自由でいいと。これは分かる気がします。たとえ快適な生活が与えられても、そこで生きることが必ずしも自分から望んだものでないなら、人はそこで生きたくないと思うでしょう。生きることにおける自主性や自発性は、生きる気力につながります。ホームレスの状態を肯定しているわけではありません。でも、生きるとは何なのか、改めて考えさせられました。

 夜になって少し過ごし易くなりました。明日も暑そうです。

「生老病死」と遊び

 明日から八月です。七月はあっという間に過ぎた感じがします。

 久しぶりに会う女友だちとお茶を飲みながら、知人たちの情報交換をしました。老いを深めていく知人たちの在り様に、感慨深いものがあります。仏教の生老病死しょうろうびょうし)という四苦の教えのうち、老いる苦しみを考えます。でもそれが欲望から来ていると言われると、意欲を失うことが生きる気力を失っていくことでもあるという側面と思い合わせて、まだうまく了解できません。

 「老いるとは楽しむこと、耐えることではない」というブロンウィン・ビショップさんの言葉の方が、今は納得できます。ニーチェは仏教の思想に高い評価を与えましたが、肯定はしませんでした。仏教的な諦観を受け入れなかった。消極的ニヒリズムと捉えました。この辺り、私にはまだまだ解釈しきれないものがあります。

 ここに遊びの思想を入れたときどういう風になっていくのか。人間存在の本質は遊びと深く関わると考えるとき、人間存在の本質としての「苦」という解釈はどう関わっていくのか。これから少しずつ、考えていきたいと思っています。

h-miya@concerto.plala.or.jp