宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

五浦

 16日から一泊で、五浦観光ホテル本館に泊まってきました。建物は古かったのですが、五浦の湯は素晴らしかったです。庭園露天風呂に浸かって、滝を模した作りから出る水音を聞き、セミの声や潮騒に耳を傾けながら夜空(残念ながら16日は曇りで星空ではありませんでした)を見上げてぼーとしていると、疲れが取れていくのが分かりました。仕事の後に、こんな時間を毎日持てたら、健康でいられるだろうなぁ、と思いました。

 17日は晴天で暑くなりました。でも五浦湾の眺めは最高でした。天心が惚れ込んだのがよく分かります。

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    手前が六角堂、左奥が天心邸、右にそびえるのが五浦観光ホテル別館大観荘。

 帰りに茨城県天心記念五浦美術館に寄って来ました。岡倉天心と言えば『茶の本』、横山大観らに影響を与えた、くらいにしか覚えていません。日本美術院というのもよく分からず、パンフレットを見ながら、お勉強しました。

 天心は東京美術学校(現東京芸術大学)創立後、その大学院にあたるものを作ろうとしていたようです。美術学校長を内部紛争で退いた後、天心は東京の谷中に日本美術院を創立しました。天心35歳の時です。日本画の革新を試みる若き画家たちが結集しました。その後天心は、ボストン美術館の仕事をするようになり、中国やインドにも出かけています。そして、東洋の文化を欧米に普及させる活動もしています。一方で、日本美術院の活動は、日本画に西洋絵画の光と空気の表現を取り込もうとして、世間からは朦朧体と称され厳しい批判を浴びるようになります。それによって日本美術院は経営困難に陥りました。

 40歳の時に天心は五浦に土地と家屋を求めました。42歳の時、その別荘を新築し、六角堂を建てます。1906年(明治39)、天心43歳の時、日本美術院の第一部(絵画)を五浦に移転します。横山大観、下山観山、菱田春草、林武山の4人の作家たちが家族とともに五浦に移り住みました。当時は「美術院の都落ち」と揶揄されたそうです。作家たちの制作に取り組む姿は、修行僧のような禁欲的で厳しいものだったようです。その後、作家たちの五浦での制作は、文部省主催の美術展覧会(文展)に出品されて脚光を浴びるようになりました。日本美術院の五浦時代です。

 1910年(明治43)に、天心がボストン美術館中国・日本美術部長になり、アメリカと日本を半年ごとに往復するようになると、同院は事実上の解散状態になったと言われます。天心は1913年(大正2)に50歳で亡くなりました。1914年、大観や観山たちは、天心の意志を引き継ぐ形で、谷中に日本美術院を再興しました。

 天心の死は早かったなぁと思います。でもその晩年(49歳の時)、インドの女流詩人プリヤンバダ・デーヴィ・バネルジー(写真で見る彼女は雰囲気のある美人です)と出会い親交を結びます。二人の間の書簡が残っていて、心に残りました。

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