宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

『ホモ・ルーデンス』

 ホモ・ルーデンス』を読み終わりました。大学時代の演習のテキストです。部分的にしか読んでいなかったので、読み通そうと思って読みました。いやーヨハン・ホイジンガの学識には圧倒されっぱなし。

 ホイジンガはかなりの夢想少年だったようですが、こんな大部の研究書を書くようになることを、周りの大人たちは気が付いていたのでしょうか。お父さんはオランダ北部のフローニンゲン大学の生理学教授だったそうです。彼には、自然科学的認識は欠如していたようですが、自然からの感覚印象には強い感受性をもっていたと、自分で回顧しています。そういう彼だからこそ書けたのが『ホモ・ルーデンス人類文化と遊戯』(高橋英夫訳、中央公論社、1971年)だったと言えるのでしょう。実証的精神から始まったのでは、このような本は書けなかったと思います。ホイジンガは、夢想とも言える壮大な自分の中の着想を、言語学歴史学の手法を使って描き出しています。

 まえがきに、文化における遊戯要素ではなく文化遊戯要素が問題だったと述べられています。ホイジンガにとっては、遊戯することが他の文化要素とどういう関係にあるかが問題なのではなく、文化そのものがどこまで遊戯の要素を持っているかが問題だったということです。

 第1章は、「遊戯は文化よりも古い」と始まります。なぜなら、動物(人間も動物ではあるのですが)は人間と同じように遊戯していて、遊戯の基本的な相はすべて動物の戯れの中はっきり現れていると言います。そして、子犬のじゃれ合いが例に挙げられています。楽し気で、規則を守って、ただただ戯れています。遊戯の本質はこの「面白さ」にあります。

 この面白さを支えている主要特徴をホイジンガは、いくつか挙げています。第一に「自由な」ものだと言われます。命令されてする遊戯なんてもう遊戯じゃないということです。第二に日常から離れたもので利害関係を離れたものだと言います。要は自己目的だということです。第三に日常から切り離された「完結性と限定性」が挙げられます。ある決まった空間と時間の中で行われ、その中で終わります。そして第四に、遊戯の内部には、「一つの固有な、絶対的秩序」が保たれています。固有の規則を持っているということです。

 このような文化の特徴が、それぞれ法律や戦争、知識、詩、哲学、芸術一般などの中に見られるかどうかを次々に検証し、最後に遊戯という観点から時代の変遷を解釈し、現代文化の中の遊戯要素を考察して閉めています。第1章、第2章の辺りは哲学的・言語学的考察なので、結構分かったのですが、歴史的叙述を駆使して文化現象の中の遊戯要素を検証していく部分は、ただただ圧倒されました。一つひとつ調べていたら、とても読み終わらないと諦め、ともかく読み通すことにしました。

 訳者解説で高橋英夫さんが「人間の生活と文化は遊戯と真面目のディアレクティークなのだという認識になるのではないか」というのがホイジンガの言わんとしたこと、というまとめで終わりたいと思います。

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    柴沼清個展にて:こういう抽象性の高い作品には遊戯因子がより浮かびあげる気がします 

花を生け、花を見、創作品に触れる

 24日は一月に一回の生け花の日でした。ここのところ、何とか継続できています。お雛さまをテーマにしたフラワーアレンジメントでした。こういうのも楽しいです。普通の生け花と違って、フラワーアレンジメントは、ばらけた感じがしてしまいます。レースフラワーを、先生がギュッと挿してくれたことでまとまりました。

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    ルスカス、カーネーション、レースフラワー、スイトピー、桃

 そのあと、弘道館の脇を抜けて、枝画展に行きました。今年は梅の開花が遅れているようです。2月末になるのに、弘道館公園の梅はほとんど開花していませんでした。同じ場所の梅の開花状況の違いが分かります。右の写真は2020年2月17日のものです。

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   2022年2月24日 弘道館公園                2020年2月17日弘道館公園

 枝画展では、また進化(深化)した柴沼清の世界に触れることができ、何かを追求することの奥深さを、作者とともに進行形で味わっている感じがしました。

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「孤高のチェロ」ロシアから米国へ亡命してロシア国籍を剝奪された中で、音楽への飽くなき追及を続けたロストロポーヴィチ小澤征爾指揮の水戸室内管弦楽団とも協演。

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         「悩める男」右は絵を覗き込んだ時に見えるもう一つの目。

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「鉄の扉の向こうに」     少し脇から振り返ってみたとき、そのまなざしの鋭さに胸を突かれました。         

村田夏帆 ヴァイオリン・リサイタル

 今日はあいにくのお天気になりました。午後から雨が降り始めて、夕方には結構降っていました。それほど寒くはありませんでしたが、今日は24節気の雨水です。雪が雨に変わり溶け始めるころです。その日のことを言う場合と次の節気の啓蟄(冬ごもりしていた虫が外に出てくること)までの約15日間を言う場合とあるようです。今年の啓蟄は3月5日ですから、4日までです。24節気と言われても、今まではあまり気にもしていませんでしたが、言葉に表現されている季節を感じ取るようになってきました。

 何に焦点を当てるのかによって、見えてくる世界が異なると思います。ずっと学校教育に関わっていると、何を学ぶのかがカリキュラム化されていて、それを基準に必要なものとそうでないものを選択することに慣れすぎています。知識の世界の広さや深さに、ため息が出てきます。24節気って何?と思って調べ始めると、分からないことばかり。そう言えば、この手の分野(天体とか天文とか)、苦手だったなぁ。

 今日は久しぶりにコンサートに行ってきました。村田夏帆さんが、地元の中学生なので仕事を休む決心がつきました。音が身体に浸み込んでくる感じが心地よかったです。夏帆さんは小柄で可愛らしく、奏でるヴァイオリンの音色の深くまろやかな音や切れの良い高音の響きとギャップがありました。どこまで育つのか楽しみです。

 演奏を聴きながら、演奏者が楽譜の世界から読み取るのは何なのだろうと考えていました。どういう世界を読み取っているのだろうと。もう少し年長の演奏者だと恐らく考えなかったことだと思います。彼らが提示する世界に浸っていました。解釈は出来ないのですが。でも、夏帆さんの演奏を聴いていると、彼女は楽譜を通して何をどういう風に読み取っているのだろうと、考えてしまいました。

 大学生の頃、友達が言った言葉を思い出しました。「楽譜を見ながらオーケストラの演奏を聴いていると、完全にこちらが思う通りの演奏はないんだよね」と。今で言うかなりのオタクだと思います。楽譜が表現する世界をどこでどう捉えるのかな、と驚いたことを覚えています。私自身は子どもの頃、音痴でした。耳から音程を捉えるのが苦手だったようで(今もそうです)、驚いた母親が音楽教室に通わせてくれました。楽譜を通してなら、音程を捉えて、歌えるようになりました。そんな私なので、とても初歩的な疑問を、音楽を楽しむことが当たり前の人には恐らくはてな顔されるような疑問を覚えました。

 夏帆さんは楽譜から何を聴いているのだろう、と。恐らくそれが演奏という形の表現なのでしょうが、それを通して何を伝えたいのか。例えば小説なら、その物語りだけでなく、語り口にというか語り口からこそ、読者は作家の伝えたいものを受け取ります。そこに展開された世界を浸しているものや、登場人物の心の在り様を理解し、その生き方に何かを感じます。そして、小説全体を覆っている雰囲気から作家の実存の在り様を感受します。書評と言われるものは、それを読者の側の言葉で表現したものだと思います。

 音楽行為は「作曲」「演奏」「鑑賞」で成り立つと言われるようです。私はこの「鑑賞」が分からないようです。作曲なんてとんでもない世界であり、演奏も人様にお聞かせするレベルではありませんが。特にクラシックの鑑賞は分かりません。話が飛びますが、美空ひばりの歌唱は凄いと思います。彼女の声の使い方は確かに天性のものだと感じます。でもこれも、最近、味わえるようになってきました。聴き続けることに意味があるのかな。心地よいものを聴くのは楽しみでもあるので、それで良しということでしょうか。

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            コンサートは満席でした。

発達障害児への療育的ケア1)発達障害

 10日の雪予報は、今のところ雨で済んでいます。ただ、気温は低いので、夜は雪になる可能性が高いようです。12日に水戸へ行ったとき、日陰に雪が残っていました。13日から14日にかけてまた、雪が降る予報が出ています。

 2005年に発達障害者支援法が施行されました。この法律では、かなり広範囲に、発達障害が認定されました。それまでの認定は、精神遅滞や知的障害を伴う自閉症スペクトラム、筋肉の病気によっておこる筋ジストロフィー症や脳性麻痺によって運動に問題を抱える人たちでした。軽度の発達障害は、社会的に支援が必要な対象としては認められていませんでした。発達障害の診断名は医師がつけますが、診断に用いる診断基準や診断方法によってA医師とB医師で診断名が異なることがあります。診断名を付けなくとも、通所受給者証を取得すれば、公費補助で療育ケアを受けることが出来ます。受給者証は、市区町村の窓口で相談して、市区町村が療育の必要性を認めた場合に交付されます。

 では発達障害とはどういうものなのか。杉山登志郎さんは発達障害を次のように言います。

発達障害とは、子どもの発達の途上において、なんらかの理由により、発達の特定の領域に、社会的な適応上の問題を引き起こす可能性がある凹凸を生じたもの

          (『発達障害の子どもたち』講談社現代新書、2007年、45頁) 

 杉山さんは、本当は「発達失調」と書きたいそうですが、現在一般化している表現法をいじるのは、混乱を生じさせるとして、発達障害という言葉を使っています。

 障害という言葉は英語にすると、dis-ability、あるいは、dis-order、になります。dis-abilityは身体障害の場合に使われることが多いようです。能力を欠くこと、不可能を意味します。それゆえ失われた機能を補うこと、サポートすることが支援になります。知的障害は intellectual disability と intellectual disorder の両方が使われます。後者は「知的秩序の乱れ」の意味になり、変化する可能性があります。その場合の支援は、乱れを整えることや乱れが不都合をきたす環境を工夫することが、支援の方向性を示します。

 杉山さんは、発達障害の障害を dis-order として、「発達の道筋の乱れ」と捉えて「発達失調」と書きたいようです。

 子どもによって、developmental disorder と developmental disability が混在している場合もあり、一人ひとりによってその支援の方法が異なっていることを痛感しています。

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        市毛の常陽銀行に飾ってあった柴沼清さんの枝画

心の理論 再考

 4日、5日と結構寒かったです。今日は一段と寒さを感じました。ただ、昼間は陽が差していたので、部屋の中ではそれほど寒さは感じませんでした。

 私たちは他の人の行動を理解するとき、その人の内的なもので考えることがあります。塾のある子は、よく「○○さんはどうして『えっ?』と言ったんだろう」とか、他の子やスタッフの発言や行動が理解できないとき、『どうして△△したのか』と聞いてきます。その多くは、別に取り立てて変わった発言や行動ではありません。「○○さんは、知らなかったから驚いたんだと思うよ」というように答えます。ただ本人が納得できないことは、送っていく車の中で、また聞いてきます。自分の心の状態と異なる心の状態が存在することが、理解できていない感じがします。

 人間やチンパンジーなどの霊長類は、同種の仲間が感じ・考えていることを推測するような行動を取ります。私たちは普段あまり考えることなく、他人の行動を予測して動いています。考えてみれば、そのメカニズムがどうなっているのか、不思議ではあります。これに関しては「理論説」と「シミュレーション説」が提唱されています。これについてはまた考えてみたいと思います。

 「心の理論」という言葉は、霊長類研究者のデヴィッド・プレマックとガイ・ウッドルフが論文で使ったものです。「チンパンジーは心の理論を持つか?」(Does the Chimpanzee Have a “Theory of Mind”,1978)という風に使われました。心の理論とは、他者の心の状態を推測する能力のことです。つまり、他の存在を心を持つ存在として理解する能力があるとき、「心の理論を持つ」と言います。これを検証するために、哲学者ベネットたちが提案したのが、誤信念課題です。

 誤信念課題には標準誤信念課題(4歳から5歳くらいに達成)と非言語誤信念課題(チンパンジーなどを検査対象とする場合)、二次的誤信念課題(6歳から9歳の間に獲得)があります。さらに7歳以上の児童期の子どもの誤信念理解を調べるために社会的失言検出課題(9歳から11歳の間に通過)が考案されました。

 標準的誤信念課題には、位置移動課題と内容変化課題があります。位置移動課題の代表的なものがサリー・アン課題です。これは紙芝居や劇で提示されます。

 サリーとアンが同じ部屋で遊んでいます。サリ―が遊んでいた人形(折り紙でも何でもいい)をバスケットに入れて部屋を出ていきます。アンがその人形を別の箱に入れます。そこへサリーが戻ってきます。

 「サリーは人形をどこに探しますか」という問いに正しく答えられるかどうかの問題です。3歳児の多くは、箱と答えます。4、5歳児になるとバスケットと答えられるようになります。3歳児は「人形は今どこにあるか(現実質問)」と「最初に人形はどこにあったか(記憶質問)」には正しく答えられます。3歳児には、自分が知っている現実とサリーの信念(人形をバスケットに入れたというサリーにとっての現実)が異なることを理解することの難しさがあるようです。

 内容変化課題は、スマーティ課題が代表的なもので、これはスマーティというチョコレートの箱に鉛筆を入れておくものです。この箱に入っているものは何かを質問して、その中からチョコレート以外のものを出して見せ、またしまいます。そして、この箱の中味を見てない人が入って来て何が入っているか質問したら、どう答えるかを聞きます。3歳児は、「鉛筆」と答える、というものです。

 この心の理論問題を3~5歳の健常児、ダウン症児、自閉症児を対象に比較実験した研究があります。自閉症児群の方が知能年齢が高いにもかかわらず、課題達成率は20%でした。アスペルガー症候群の子どもや高機能自閉症児は、標準誤信念課題及び二次的誤信念課題を通過できることが示されました。しかし、社会的失言課題は難しかったそうです。これらのことから、自閉症児の社会的能力の欠如には、心の理論の欠如が関わっているのではないかという解釈が出されています。

 この心の理論の中枢領域も分かってきています。脳の特定部位の働きのみで成り立っているわけではなく、広範なネットワークで成り立っているようですが、特に基盤となっている可能性の高い部位もいくつか特定されてきているようです。

 こういうことを知っていくことで、日常的に私たちは何を得ているのでしょうか。一般的に抱く違和感を客観視できる視点には結びつくのかもしれません。そして、どういう風に対応していったらいいのか、どのような支援が出来るのかを考えていくときの土台にはなる、と思います。

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                2021年4月21日 はまぎくカフェ

発達障害の子どもたちとともに

 一般的知識として知っていることは、現実の場面に即適用できるわけではありません。個別と一般化されたものとの間には距離があります。知識を個別に適用していくには、熟練を要します。また個別を一般化していくのも、基準が必要になります。何のために何を抽象化するのか。これは目的を明確にして、どの部分を一般化するか、ということです。

 発達障害といわれる症状には、さまざまな段階があります。比較的軽い子で、定型発達といわれる子どもとの差異がそれほど明瞭でない場合、逆に支援の方向がまだ定まっていない感じがします。ここも難しいところですが、確かに、単にできないというより、脳の回路の中で繋がっていない部分があるという感じを受けます。それも繰り返しの中で、繋がるようになるのかどうか。

 例えば、算数の計算の手続き(筆算など)はできる子が、簡単な暗算では躓きます。特に引き算は苦手です。小学高学年でも「100-50=」が出来ない。筆算ならできます。これには考えてしまいました。ただ筆算するときも、桁を揃えるということが自分では困難なようです。こちらが出した筆算問題は出来ます。

 算数障害というつまずきは、さまざまな認知的要因が関わっていると言われています。数概念や数処理の獲得の部分での躓きは、見えにくいと言われます。この基礎部分が困難であっても、計算や数的推理に進むことが出来ないとは、必ずしも言えないようです。

 どういう形で、指導をしたらいいのかは、問題が何かを明確にしないと難しいと痛感しています。

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               雪柳、ガーベラ、フリージアモンステラ 

エビデンスレベルとバイアス

 今日は少しホッとする気温でした。お天気も良かったし、やれやれです。しかし、今日に日付が変わる頃、津波警報が発令されていました。起きてビックリでした。トンガで15日に起きた火山噴火の影響です。

 さて、このところ引っかかってきたエビデンスという言葉は、日本語にすると「証拠・根拠」になります。ただ、根拠という言葉は、何かに関して自分の意見を述べるときの理由づけです。しかし、エビデンスを持つ情報とは、科学的根拠を持った、バイアスの少ない信頼できる情報という意味があります。「根拠」と区別するために「エビデンス」とカタカナで表現することが多くなってきています。

 人が意見を述べるとき、「なぜなら~」が提示されます。この「なぜなら~」が意見の根拠です。ただこの根拠は、間違っている場合もあれば、弱いものもあります。個人的経験や感想が根拠になっている場合、バイアスがかかっている可能性が高い。

 バイアスには認知バイアス、感情バイアス、正常性バイアス、生存者バイアスがあります。認知バイアスに全部ひっくるめて考えることも出来ます。要は合理性や客観性の境界に関わると言えます。

 上の4つに分けたときの認知バイアスとは、記憶の誤りや基本的な統計学的な誤り、根本的帰属の誤りがあります。統計学的な誤りについて、例えば、私たちは飛行機と自動車どちらが危険かと言われると、飛行機と思わず答える傾向がないでしょうか。でも、飛行機事故の死亡確率は0.0009%、自動車事故の死亡確率は0.003%(2017年)です。アメリカではさらに飛行機事故の確率は低く、0.000034%のようです。また、日本では1986年以降、飛行機事故は起こっていません。

 根本的帰属の誤りとは、問題の原因を状況ではなく個人の性質などに見い出しがちな傾向です。誰かがものを壊すミスをしたとき、急いでいたからとか、置いてある場所が悪かったと捉えるより、そそっかしいからというように、個人に帰属させる傾向のことです。

 認知を包括的概念枠で捉えると、認知バイアスには、後知恵バイアス、確証バイアス(自分に都合のいい情報だけ集める)、正常性バイアス(被害が予想される状況でも「自分は大丈夫」思い込む)、生存者バイアス(生還しなかった人の意見は聞けない)、アンカリング(評価が無自覚的に何かの情報に引きずられること)を含めることが出来ます。感情バイアスも、感情的要因に認知が引きずられるという点では、認知バイアスに入るとも言えます。

 これらのバイアスを極力排するのが、エビデンスレベルが高いと言われる状態です。バイアスが生じるのは、事実誤認から来るといえますが、バイアスを排除するためにはどうすればいいか。客観的観察や数値による記述を重視する、ランダムに取ったサンプル同士の比較検討、さらにそれらのデータ同士の分析ということが考えられます。

 EBMでは、臨床結果が重視され、ランダム化比較試験(RCT)、そのメタ分析によって信頼性が担保されます。ランダム化比較試験とは、次のようなポイントを持ちます。治療群と対照群があること、それらはランダムに抽出されていること、盲検化(検査者と被験者どちらも治療群と対照群がどちらか分からない。計測に主観が入らないようにする)がされていること。そして、RCTを複数集め解析するのが、メタアナリシスです。

 伝言ゲームをやると微妙に話が違っていきます。情報に関しても、バイアスを出来るだけ排除して、エビデンスレベルを上げる手順は、色々な社会的場面で発展途上かなと思います。

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               サザにて

h-miya@concerto.plala.or.jp