宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

大洗磯前神社

 昨年の破魔矢酒列磯前神社)を返しそびれていたことが気になっていて、大洗磯前神社に返してきました。兄弟神社なのでいいかな、と思って。調べてみたら、神社からもらったものは神社へ、お寺からもらったものはお寺へ、という約束事はあるようです。本来はもらったところへ帰すのがいいようですが。それと、きれいに保管できるなら、何年飾っておいてもいいそうです。なるほど。

 大洗磯前神社の境内で、日光猿軍団のタイガ君が芸を披露していました。サルの脚力の強さに驚きました。

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この後、障害物を3段にしたものも飛び越えました。 この列に並ぶのは躊躇われて、破魔矢だけ購入。

寒の入り

明けましておめでとうございます

 今日は小寒です。暦の上で、寒の入り。幕の内が明ける1月7日頃から立春までに出すのが、寒中見舞いです。大寒が1月20日ですが、寒さ既に極まり、の感じがします。

 二十四節気、あまり気にしないで来ましたが、改めて見てみると、面白いなぁと思います。ずっと微妙に季節感とずれているなぁとは思っていましたが、もともとが中国の中原(黄河下流域平原)を中心にした気候から作られているということで、納得です。

 日本の気象協会が、日本流の新しい二十四節気を作ろうとした(2011年)ようですが、頓挫して(2012年)います。これまでに培われてきた微妙な季節感を混乱させる、というような反対の声がたくさん寄せられたとか。まぁ、反対の声も分かるような気がします。ずれてるなぁも、ずっと続けているとそれ自体が季節感。

 私はこのずれも温暖化の影響か、なんて思っていましたが、もともとがずれていた訳ですね。

 太陽の移動と一致しているのは、夏至冬至の二至と春分秋分の二分だけ。両方合わせて二至二分と言われ、これに立春立夏立秋立冬の四立を合わせて八節と言われます。

 この二十四節気、これからも折に触れて調べていきたいです。土用の丑の日にウナギを食べる、は結構有名ですが、これも土用が五行説から来ているとか、なるほどです。

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  「はまぎくカフェ」で飾られたパンのリース。本物のパンです。

2021年が終わります

 昨日からまた寒くなりました。「シバレル」という言葉の感じがよく分かります。今日はもう大晦日。今年も終わります。昨日、今日と雑用に追われていました。昨日はお墓の掃除と正月の花をあげてきました。今日は、年賀状を書きあげなければと思いながら、買い物で時間を取られました。玄関だけは何とか掃除を済ませ、残りの年賀状を書こうとパソコンに向かっています。

 一年を振り返って、なんだか追われている年だったと思います。コロナが落ち着いた後半は、一気に周りも走り出した感がありました。私にとっては、5月から週2回行くようになった放課後等デイサービスの仕事が、今年は大きな比重を占めました。発達障害というのがどういうことか、どういう対応をしていったらいいのか、それを学べたことは大きな収穫でした。まだまだ、分からないことだらけですが、彼らを理解していく道があることを経験できました。

 やるべきこと、やらなければならないことがあると、まずはそれに注意が集中します。でも、これから何を目指すのか、立ち止まって考える時間を作りながら、目の前の子どもたちと向き合っていけたらと思っています。

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          12月30日の華蔵院 

知識を身に付ける

 情報にあふれた時代ですが、本当に分かるとはどういうことなのか。何かを知るとはどういうことなのか。考えてみると難しいです。なぜ私たちは知識を求めるのか。知ること自体を楽しむこともあります。クイズなどはそれに当たるでしょうし、学問の根底には知識欲(愛知)があります。しかし、通常、実践のために知識を必要としていると思います。実践するには、知っているだけでは十分ではなく、それが身に付いていないとできません。偶々上手くいくことがあったとしても、それは本当にできる状態ではありません。

 ソクラテスは、徳において、知行合一(知ることで正しいことが出来る)を言いましたが、アリストテレスはへクシス(身に付いていること・状態)の大切さを言いました。

 技術に関しては、理屈が分かるだけでは意味がなく、それを発揮できる力量が重要です。この身に付いている状態がへクシスですが、これは訓練・学習によって習得されます。徳に関してもそれを理解しているだけでは実践されません。知恵や思慮に関する徳は知性的徳で、教育されますが、(勇気や節制などの)品性上の徳には、習慣づけが重要だとされます。いやいやながら、あるいは人から指示されて正しい行いをしている状態は、徳を実践しているとは言えません。外からは見えにくいですが、本人には分かっていることです。

 なぜなら、徳の実践には身体性が絡むからとも言えます。身体レベルが関わるものは、すべてこの習得(習慣づけ)が関わると言っていいでしょう。知っているだけでは、行動・行為には必ずしも結び付きません。

 実践が前面に出るものは、習得することが重要で、身に付いてしまうと当たり前になって、逆に言語化することが難しい。自転車に乗れるようになったとき、乗り方をいちいち言葉で確認しているか、ということです。

 しかし、知識に関しても、例えば計算は原理が分かるというより、計算能力として身に付いていないと使い物になりません。知の独創性の根底には、基礎知が状態化していないとまずい。では、状態としての知をマンネリ化させないものは何か。知識を使うとき、状況(解くべき問題)を観察して、絶えず「よりよく」を意識していること。そこに新しい発想の芽が生まれるし、知の組み換えが生じていく可能性があるのではないかと思います。それと同時に、「わかる」という次元の深化が生じるのだと思うのです。

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         12月28日 若松、南天、オンシジュウム、千両、菊、柳

知っていることは出来ること?

 今日は猛烈寒かったです。明日も寒いようです。晴れているのでまだ救われます。

 現在、発達障害児の療育に関わっています。応用分析学を療育に活かしている事業所で仕事をしていますが、応用分析の考え方はシンプルです。ただし、それを療育で使うことの大変さを実感しています。

 知っていることと出来ることとの違いは、分かっているようでいて、そうでもないのかもしれないと思います。

 応用行動分析は発達障害自閉症への療育に効果があると言われています。応用行動分析、ABA(Applied Behavior Analysis)はスキナーの行動分析学から展開したものです。従来の心理学が、個人の内的なものに注目したのに対して、行動分析学は個人と環境の相互関係に人の行動や心の動きのベースがあると考えます。ABAの手法を使う療育は、週当たりの一定時間以上を必要とするという研究結果も出ているようです。

 ABAは行動を理解するときに「A(Antecedent:先行事象)+B(Behavior:行動)=C(Consequence:結果)」という「ABCフレーム」で考えます。A「おもちゃ売り場に行く」+B「泣きわめく」=C「おもちゃを買ってもらえる」と言うことです。ある種、とても分かり易く、「だから何?」という見方も出てきます。

 日常的によくあることで、親だったら誰しも経験しているとも言えます。そこはそれぞれ、ほどほどに対処していると思います。時には頑として譲らない姿勢も見せつつ、時には「今日はいい子だったから」という理由を付けて買ってあげたり、と。まぁ、それで何となく済んでいる。それが理論と言われると、何となく肩透かしを食った気がするかもしれません。

 療育におけるABAのやり方は、常識的な対応(熟練した意味での常識)とも重なりますが、技法としては習得して身に付ける必要があります。望ましい結果をもたらすための一貫した方針のもと、対象者の観察と実践者の側の力量やその時の状況などへの判断に基づいて実践されます。

 まさにアリストテレスの中庸の徳が「しかるべき時に、しかるべき事柄について、しかるべき人に対して、しかるべき目的のために、しかるべき仕方で」美しく振る舞うことが出来ること、と言われていることを思い出します。

 応用分析学の考え方が分かるだけでは療育は出来ません。肝心なのは、それが実践できる力になっているかどうかです。教育学を知っていたら教育現場で即通用する力になるか、ということとパラレルです。個別に対応する力は、考え方が分かるだけでは十分ではないのです。

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          12月2日 那珂川縁で

歌声を堪能する

 12月になって急に寒い日が増えました。今日はまた一段と寒かったですが、そう言えば、8日はお天気も悪く寒かったです。東京での仕事で、二コマ続きの授業でした。帰って来て、車に乗ると車の中が冷え切っていました。14日も寒かったです。15日は「はまぎくカフェ」の第11回目でした。お天気は回復しましたが、思ったほど暖かくは感じませんでした。

 今回の「はまぎくカフェ」は山本彩子さんのミニコンサート。後半では歌唱指導もあり、『キャッツ』の「メモリー」を一緒に歌いました。でも、やはり、彩子さんの独唱は素晴らしかった。話をするときの声は、とても可愛らしいのですが、歌声は鍛えられた声の持つ魅力を堪能させてくれます。人間の声がここまでつややかに膨らみをもって表現力を獲得することに、感動してしまいます。

 『更級日記』「足柄山」の部分に、歌を歌う遊女が出てきます。「声すべて似るものなく、空にすみのぼりてめでたく歌をうたう」とあります。それを聴いていた人たちがみんなひどく感動した、という場面です。歌声が空にすみのぼる、という捉え方や歌に心を揺さぶられるというのがどういうことか、実感として分かります。

 参加していた方たちも、声の芸術を堪能された気がしました。私はこれまで、オペラをテレビなどで見ていてもあまり関心が持てませんでした。でも、(クラシックで訓練された)生の歌声には、人の心をつかむ力があることを実感しています。

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   12月15日 クリスマス・ミニコンサートで歌う山本彩子さん

ゴッホ展

 風は冷たいですが、部屋の中にいると、太陽が出ていると暖かです。先週の金曜日(10日)に念願の「ゴッホ展 響き合う魂ヘレーネとフィンセント」に行ってきました。予約制で入場制限をしているので、混んではいましたが、鑑賞できないほどの人ではありませんでした。

 響き合う魂の意味が今一つ得心できないままですが、ゴッホ収集家のヘレーネ・クレラー=ミュラーの役割が分かりました。最初、身近でゴッホと関わった女性なのかと勘違いしました。そうではなく、収集家と画家の関係で、そういうかかわり方に焦点を当てながらの展覧会でした。

 ゴッホと言うと「ひまわり」なのですが、今回は太陽とかレモンとかがモチーフになった絵も紹介されていました。また彼のデッサンが多数展示されていて、デッサンの重要性が浮かび上がっていました。

 やはり圧巻は、糸杉の傑作、「夜のプロヴァンスの田舎道」(1890年)です。真ん中に糸杉が直立して、その両側に明るい星と三日月が描かれています。ヘレーネが気に入っていた作品は「レモンの籠と瓶」。何ということも無い画題で、レモンの色とか質感が言われて見ないと分からないような絵です。(+o+)、やはりヘレーネがなぜそれほど惹かれたのか分かりませんでした。

 ゴッホが画家を志したのが27歳で、自殺したのが37歳(1890年)です。彼の画家としての活動期間は10年です。短いなぁ、というのが正直なところ。

 「星月夜」はニューヨーク近代美術館が所蔵しています。本物を見てみたいなぁと思いました。

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          パンフレットと10日の東京都美術館

h-miya@concerto.plala.or.jp