宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

知識を身に付ける

 情報にあふれた時代ですが、本当に分かるとはどういうことなのか。何かを知るとはどういうことなのか。考えてみると難しいです。なぜ私たちは知識を求めるのか。知ること自体を楽しむこともあります。クイズなどはそれに当たるでしょうし、学問の根底には知識欲(愛知)があります。しかし、通常、実践のために知識を必要としていると思います。実践するには、知っているだけでは十分ではなく、それが身に付いていないとできません。偶々上手くいくことがあったとしても、それは本当にできる状態ではありません。

 ソクラテスは、徳において、知行合一(知ることで正しいことが出来る)を言いましたが、アリストテレスはへクシス(身に付いていること・状態)の大切さを言いました。

 技術に関しては、理屈が分かるだけでは意味がなく、それを発揮できる力量が重要です。この身に付いている状態がへクシスですが、これは訓練・学習によって習得されます。徳に関してもそれを理解しているだけでは実践されません。知恵や思慮に関する徳は知性的徳で、教育されますが、(勇気や節制などの)品性上の徳には、習慣づけが重要だとされます。いやいやながら、あるいは人から指示されて正しい行いをしている状態は、徳を実践しているとは言えません。外からは見えにくいですが、本人には分かっていることです。

 なぜなら、徳の実践には身体性が絡むからとも言えます。身体レベルが関わるものは、すべてこの習得(習慣づけ)が関わると言っていいでしょう。知っているだけでは、行動・行為には必ずしも結び付きません。

 実践が前面に出るものは、習得することが重要で、身に付いてしまうと当たり前になって、逆に言語化することが難しい。自転車に乗れるようになったとき、乗り方をいちいち言葉で確認しているか、ということです。

 しかし、知識に関しても、例えば計算は原理が分かるというより、計算能力として身に付いていないと使い物になりません。知の独創性の根底には、基礎知が状態化していないとまずい。では、状態としての知をマンネリ化させないものは何か。知識を使うとき、状況(解くべき問題)を観察して、絶えず「よりよく」を意識していること。そこに新しい発想の芽が生まれるし、知の組み換えが生じていく可能性があるのではないかと思います。それと同時に、「わかる」という次元の深化が生じるのだと思うのです。

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         12月28日 若松、南天、オンシジュウム、千両、菊、柳

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