宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

共感と道徳

 ポール・ブルームの『反共感論』を読み終えました。彼は道徳指針としての「共感」は弊害の方が大きいと言っていますが、共感全部を否定しているわけではありません。さらには最後で、「人生には道徳以上のものがある」「共感は喜びの大きな源泉になりえる」と書いています。私が題名に驚かされてこの本を手に取ったというのは、出版社や著者の「思惑」に嵌ったということでしょう。でも、内容としては、妥当な見解だと思いました。ポール・ブルームは道徳における感情の役割を否定しているわけではありません。「思いやり(compassion)」や他者への配慮・気遣いのような、より距離を置いた感情や他者に対する敬意、欲望をコントロールする能力などが、善い行いには重要だと考えています。

 しかし、では私たちを道徳的に、特に利他的行動に動機づけるものは何なのかは、問題として残ります。私たちを行動へと動かすものは、感情の力が大きいと思いますが、道徳の場合、それはどのような感情なのでしょうか。カントは、道徳的法則への尊敬の感情から行為する義務が、道徳的行動だと言います。

 カントは義務を完全義務と不完全義務の2つに分け、さらにそれぞれを内的、外的と2分しています。完全義務とは、やって当然、やらなければ批判されるものです。不完全義務とは、やらなくても批判されないが、やれば褒められるものです。この辺りの完全と不完全は、義務の本来の在り方との関係を表現しています。

 さらに完全義務は内的完全義務と外的完全義務に分かれます。内的完全義務の例としてカントが挙げているのは、自殺の禁止、自己の生命の尊重、自愛の本来の在り方を全うせよ、という命令です。外的完全義務の例は、自愛や自利ゆえに他者を欺くこと(詐欺や虚言)の禁止です。孔子の「己の欲せざる所、人に施すこと勿(な)かれ」(論語』「衛霊公第十五 24」)はこれに当たると思います。完全義務に関しては、社会生活上必要なものであり、欲求のコントロールに関わるものです。

 次に内的不完全義務。これは、自分の能力の開発を命じます。外的不完全義務は、他者を援助する命令です。後者は、イエス・キリストの山上の垂訓「あなたたちが人にしてもらいたいと思うことを、人にもしてやりなさい」に当たると思います。

 完全義務も難しいですが、それ以上に不完全義務の遂行は難しい。というのは、不完全義務の何を選択するかをどうやって決めたらいいのか。他者や社会に対する責任行動、よりよい世界にするための社会的貢献活動などは、ありすぎて選べません。そういうときに、「共感」は一歩を踏み出す大きな手掛かりになります。

 ポール・ブルームも、「善きことを行うよう人々を動機づけるために戦略的に動員できることに疑う余地はない」(58頁)、「共感は世界をよりよい場所にしようとする親切心を動機づけることができる」(289頁)と言います。問題は、共感がスポットライト的な性質を持ち、バイアスの影響を受けやすくなる。また、数的感覚を欠くということでしょう。身近な人の身に起こったことの方が、アフリカで飢えている2億を超える人たちの問題より痛切に感じられます。バランスを欠いて公正さを失したり、バイアスの問題に無自覚でいてはいけないということでしょう。

 社会活動をする人たちに時折感じるのが、この無自覚性。共感から始まる行動は、スポットライト性を持つので、バイアスがかかりやすいと言われます。共感の経験に関与する脳領域は、敵か味方か、自集団か相手集団かの区別に敏感だそうです。例えば、「自民党の誰それが」「共産党の誰それが」で、その後の行動や発言以前に、「その誰それ」へのプラス評価やマイナス評価がある程度決まっている、というような。

 もう一つ、ポール・ブルームは情動的共感に駆り立てられた人に及ぼす負の影響を指摘します。いわゆる「燃え尽き症候群」の問題です。共感と思いやりの差異に関しては、神経科学的にも研究がなされています。仏僧で神経科学者のマチウ・リーカルを被験者としたfMRI実験で、苦難の状況にある人々に思いやりの瞑想をしてもらうと、共感による苦痛の共有をつかさどる脳領域の活性化が起こらなかったそうです。次に、共感を覚えた状態に身を置いてもらうと、彼の脳は、他の非瞑想者が他者の痛みについて考えるよう求められた時の脳と同じような活性化を示したそうです。のちに彼は次のように述べています。

「共感による共有は、(‥‥)私にはただちに耐え難いものになりました。燃え尽きたかのごとく、情動的に消耗したように感じられたのです」(171頁) 

 共感の訓練をすると、島皮質や前帯状皮質が活性化し、思いやりの訓練では、内側眼窩前頭皮質や腹側線条体など他の脳領域が活性化されるそうです 。内側前頭前皮質はメンタライジング(他人の心の状態を推測する)に関与するとも言われています。いわゆる認知的共感の領野です。

「共感とは対照的に、思いやりは他者の苦しみの共有を意味しない。そうではなく、それは他者に対する暖かさ、配慮、気づかい、そして他者の福祉を向上させようとする強い動機によって特徴づけられる。思いやりは他者に向けられた感情であり、他者とともに感じることではない」(170頁)

 「なぜ人は助けるのか」の問題は、「共感」ゆえというより、人間のもっと内発的な発露(現存在の気づかい)のようですが 、社会的レベルになったとき、援助の対象をどうやって決めるのか、その問題は残ったままです。 

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                 3月6日中根吉田神社境内から

共感の必要性?

 今日は母の受診に付き添いました。帰りに、弘道館鹿島神社の梅を見ながら、車の中でおにぎりを頬張りました。この季節、梅があちこちで咲いています。こぶしも咲き始めています。

 『反共感論 社会はいかに判断を誤るか』(白揚社)を4分の3くらいまで読みました。ポイントは、共感を他者の感情の反映(ミラーリング)と定義して、認知的共感とは区別される情動的共感と捉え、その弊害を論じているということです。概ね、私自身の考え方と重なるなぁと思いながら読んでいます。

 著者のポール・ブルームは、共感よりも思いやりや配慮を求めています。共感の持つスポットライト性やバイアスの影響を受けやすいこと、数的感覚を欠く点などが指摘されています。また、共感を経験する人に与える負の効果として、「燃え尽き症候群」も言われています。プライベートな領域でも過度の共感はうまく機能しないとも。そして道徳的問題とはバランスの問題でもあると言われます。実感としてよく分かります。

 誰もが直面するもっとも困難な道徳的問題は、適正なバランスを保つことにある。どれくらいの金銭と時間(と注意力と情動的エネルギー)を自分自身、身内、赤の他人のために使うべきなのか?     (199頁)

 ブルームは共感に否定的ですが、感情的関りを否定しているわけではありません。思いやりや配慮は、共感なしに発揮されると主張します。道徳を共感にもとづかせることに懐疑的なわけです。カント的な道徳律を称揚するのかどうか。最終章は「理性の時代」になっています。もう少しで読み終わります。

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              弘道館鹿島神社から旧県庁を眺めて

子どもの絵

 子どもの絵って、どうやって描いているのだろう、と思います。絵本の影響なのでしょうか。今日、たまたま見た小学一年生が書いた人の顔を見て、家の子が幼稚園の年長さんか小学校の低学年で描いた時の絵を思い出して探しました。

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         子どもが私を描いた絵(20年以上前の私)

 今日見た絵も、同じような書き方でした。これって見たもののイメージを描いているわけですよね。いわゆる写生ではないです。今、私が誰かを描くとしてどうするか? 写真を参考にして描くかな。子どもたちが描く絵は、感覚体験を最も素朴に表現しているということでしょうか? 絵本の絵って、どこか同じ描き方だなぁと思います。

 フッサールの「意識の志向性」との関りで気になっています。意識の志向性とは、私たちの意識がどういう風にものを把握しているのか、その仕組みを言っていると言ったらいいでしょうか。「現出と現出者」という形で、私たちの意識は何かを捉えます。すべて意識の中で起こっていることです。私たちは、この意識の外へは出ることは出来ません。つまり、意識の中でどうやって外=超越を妥当(確信)するのか。ここで知覚が重要なポイントになります。

 私たちは何かを見ているとき、何を見ているのか。絵に描いてみようとすると、ものの形でも人物でもとても難しいです。私たちは、意識に現れているある一面的な、断片的な感覚を同時的に意識の中で構成して、それが何かを知覚(判断)します。バラだとかリンゴだとか、〇〇さんの顔だと。ただ感覚するものは、例えば、長方形のテーブルが見える位置によって平行四辺形だったりするように、私たちの知覚(判断)するのとは異なっています。

 「現出」というのは感覚しているもの・ことで、「現出者」というのは知覚しているもの・ことです。この両者は切り離せませんが、別のものです。現出として現出者は常に意識に現れます。同じ現出者が多様に現出します。現出(平行四辺形の現れなど)は現出者(テーブル)として知覚される。こういう意識の在り方を、フッサールは「意識の志向性」と言ったようです。

 子どもの絵は、テーブルを描くと長方形になります。でもどことなく特徴をとらえています。ということは、テーブルとはこういうものという知覚像(言葉)があって、それにテーブルの感覚されたものを描きこんでいるのでしょうか。

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            梅の木の下で休むおじさん

終活

 少し前から、年上の友人が「終活している」と言っていました。年賀状で、「今年が最後」という連絡をいただくことも増えました。そうかぁ、身の回りの整理しなければと思うようにはなっています。

 「終活」という言葉は、2009年に『週刊朝日』が連載を組んで以来、広く浸透したようです。私の場合は、身の回りの物品整理の段階ですが、いやぁ、確かにこれを残されたら、整理は大変。残されたものは、まぁ、どんどん捨てられるんだろうなぁ、とは思います。

 女性学を教えていたころの新聞記事の切り抜きを整理、というかほとんど捨てました。1990年代の日経新聞の記事が結構大量に在りました。鹿島敬さんが、編集局生活家庭部長をしていた頃でしょうか、女性労働問題をかなり取り上げていました。

 新聞記事の変遷も整理してみると面白いでしょうね。私が捨てられなくて残したのは、『フロイスの日本覚書』「第Ⅱ章 女声、その風采と衣服に関して」(中公新書)の部分のコピー。ヨーロッパの女性と日本の女性を比較する形で、書かれています。例えば、

1.ヨーロッパでは、未婚女性の最高の栄誉と財産は貞操であり、純潔が犯されないことである。日本の女性は処女の純潔をなんら重んじない。それを欠いても、栄誉も結婚(する資格)も失いはしない。

30.ヨーロッパでは夫婦間において財産は共有である。日本では、各々が自分のわけまえを所有しており、ときには妻が夫に高利で貸し付ける。

 ルイス・フロイスは、1532年、ポルトガルの首都リスボンに生まれています。彼は16歳でイエズス会に入会し、インドへ向かいました。1563年に来日して、信長の寵愛を受け、1585年に『日本覚書』を執筆しています。31歳で日本に来て、22年後に本を書いています。日本の女性に関する記述は、かなり正確ではないかと思いますが、ただその観察対象の範囲は限定されていたかもしれません。ヨーロッパと比較する形での叙述形式ですが、どうもヨーロッパの風習に関しては、16歳でインドへ派遣されているので、どの程度信憑性があるのか疑問視されています。

 読んでいる分には、ヨーロッパの女性より日本の女性の立場の強さが印象に残ります。

 こんなことしているので、終活の身辺整理は時間がかかりますね。

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      4月開校予定の小中一貫校「ひたちなか市立美乃浜学園

人間の尊厳と自立5.人間の尊厳の根拠

 「人間の尊厳と自立」という科目の成立を見てみると、法律に記載された(誠実義務)こと、というのが大きいようです。ではなぜそのような条文が出てきたのか。その背景には、施設における拘束等の問題もあるのではないかと思われます。これはまた別に考えていきたいと思います。それはそれとして、なぜ人間に尊厳があるのか、その根拠はどこにあるのか、は今一つはっきりしません。前提として人間の尊厳保持が、提示されています。

 なぜそのようなことに拘るのか。この問題は、「パーソン論」の問題とも重なってきます。パスカルは「人間は一本の葦にすぎない、自然の中でもいちばん弱いものだ。だが、それは考える葦である」(ラフュマ版200)として、人間の尊厳を考えることの中に見出しました。西洋思想の中で理性(考える能力)は、人間の証しとして捉えられてきたと言っていいと思います。カントは人格(自由意志)に人間の尊厳の根拠を見い出しました。カントの人格とは、理性によって道徳法則を自ら選択して、自律的・自立的に行為する存在のことです。

 では、これが、欠けていると思われる状態はどう捉えられるのか。さらに技術の進歩の中で、胚の問題や臓器移植等をどう扱うのか、ということも出てきています。出生後の人間を対象に限ったとしても、福祉を最も必要とする存在ほど、この人間の尊厳の規定からは外れます。幼児、老人(特に認知症状を呈する人)、障害者など。

 私の手元の教科書『新・介護福祉士養成講座1 人間の理解』(中央法規)では、生きていく中で、介護職の支援を受けることにもなるが、それは人間関係を基盤にする、というようなことで始まっています。そして次のように続きます。

 人間関係の構築には,現在の生活状況の理解はもとより,人間としての尊厳が保持され,社会の人々との人間的なコミュニケーションのもと,自立した豊かな生活を営みたいという人間の姿の真の理解から始まります。 (2頁)

  そして、その人間存在の尊さは理論や知識でなく、直接に感じ取るものだと言われています。しかしながら、この直接に感じ取るとはどのようなことを言っているのでしょうか。通常の「感じ取ること」を根拠にすることには危うさがあります。

 かつて、ある教え子が実習に出て、ぽろっと漏らした言葉があります。「先生、生きていても仕方ない人っていますよね」と。

 その学生は、寝たきりで自分では食事もとれない、言葉を発することもない利用者さんの姿に、ある意味衝撃を受けたようでした。人間の悲惨な状況に対面したとき、「生命への畏敬」という言葉がどれだけ響くのか。それを感じ取ることができないことを責めることは、無意味だと思います。

 私にもその言葉はショックでした。その学生には「安楽死を含めて生きること、死ぬことを考えることは必要だけど、現場では生きることの持つ可能性を信じてないと辛いよ」というようなことを言った気がします。

 倫理の言葉はお題目になっては意味がありません。しかし、「倫理の言葉に私たちの心が追い付かないこともある」というようなことも授業で言ったことを覚えています。(他人の感情に同調するという意味での)共感を倫理の基礎にはおけない、という点に私は同意しています。「人間の尊厳」の根拠は、言語化される必要があると思っています。そして、直接感じ取る、ということの意味がもっと明確にされる必要があるとも思います。

 現象学の視点を使うことで扱える問題なのかどうか。直接経験(主観的なもの)がもとになって私たちの客観世界が形成されるとして、この直接経験を知覚経験を超え出る領域にまで言えるのかどうか。生きている姿を直接「感じ取る」という直接経験はあるのでしょうか。この「感じ取る」は、「嫌なものを感じ取る」とか、「恐ろしいものを感じ取る」というような、すでに評価的なものを含んでいるのではないでしょうか。

 もう一つ、法律の条文では、人間の尊厳という表現が出てきていないことも注意点です。「自己の尊厳」(世界人権宣言)、「個人として尊重される」(日本国憲法第13条)、「個人の尊厳の保持」(社会福祉法)という表現で、人間の尊厳という言い方は見当たりません。しかし、日本国憲法は人間の尊厳という表現を使ってはいませんが、人間の尊厳を根拠としないと「基本的人権」は言えません。ここで語られている「個人」とは、これら基本的人権の保持者であり、その意味では尊厳を持つ人間としての個人と捉えられます。勝手気ままな個人の尊重や尊厳を意味するわけではないのです(この法律的解釈の部分は山崎将文「福祉における人間の尊厳―憲法学からのアプローチ―」(『憲法論叢18号』)を参考にさせていただきました)。

『反共感論』

 ポール・ブルームの『反共感論 社会はいかに判断を誤るか』(白揚社、2018年、原書版2016年)を読み始めました。ちょっとセンセーショナルな題名に足を止めたのと、私自身、共感とか思いやりが道徳にどういう役割を持っているのか、ずっと気になっていたためです。感情の役割については、戸田正直さんの『感情――人を動かしている適応プログラム』も気になっていますが、まずは共感について考えておこうと思います。

 共感については、「対人性反応性指標(IRI)」:共感力を客観的に測定するテスト、というものがあります。これは共感を4つの側面に分けています。最初の3つが情動的共感と言われます。①「共感的配慮」:他者の幸不幸に共感する気持ち、②「空想」:フィクションの人物に感情移入する傾向、③「個人的苦悩」:他者の不幸な境遇をわが身に置き換えて恐怖を感じる傾向、です。④「視点取得」:他者の立場に立って物事を自然に考えることができる、は認知的共感と言われます。

 ブルームがとりわけ問題視しているのが、情動的共感です。彼は用語の定義を巡る議論が嫌いだと言っていますが、自分の立場を明確にするために共感を次のように定義します。「他者の感情の反映(ミラーリング)という意味に言及する用語としては、『共感(empathy)』がベストだと考えている」(52頁)と。ブルームは、道徳の核にこのような感情の反映を持ってくることは危ないと批判するわけです。感情に引きずられて判断を誤る、ということを言います。しかし、道徳的判断の指針としてはふさわしくないが、動機付けに戦略的に動員できることには疑いを持たない、とも言います。

 認知的共感に関しても、道徳的判断の指針にはならないと主張します。認知的共感の有用性は否定しませんが、没道徳的な道具(ツール)だと言います。なぜなら、他者の気持ちがわかる悪人は始末に悪いからです。

他者の心を理解するという点では、いじめっ子は通常の子どもにまさる。人を嫌がらせるにはどうすればよいかをよく心得ているのだ。だからこそ実に効果的に他者をいじめられるのである。 (49頁)

 ブルームは最善の結果は理性に依拠することで得られると考えています。共感を否定するというのではなく、それの道徳との関係における位置づけを過大評価することへの批判と言えます。

 最初の辺りを読んだ限りでは、それほど極端な主張をしているとは思われません。道徳の核に共感を置くという議論自体、極端であって、その意味ではブルームは妥当な主張を展開している気がします。本の題名がセンセーショナルなだけで、どうも内容はそれほど驚かされるものではなさそうです。最後まで読んでみないと分からないかもしれませんが、共感に関して整理するにはいい機会かなと思います。

山百合の会

 月一回、数人で集まって花を生けています。先月は県独自の緊急事態宣言でお休みでした。23日午前零時をもって緊急事態宣言が解除され、今日は久しぶりに集まって、花を生けることができました。

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         桃、麦、レースフラワー、ラナンキュラス

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  桃と組み合わせる花材と生ける人が異なると微妙に異なる作品になります

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  2020年2月26日サンシュユ、トルコ桔梗、スイトピー、ゴッドセフィアナ

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2019年2月20日 桃、スイトピー、スプレーカーネーション、レースフラワー、ブルニア(緑の実物)、ゴッドセフィアナ
 斑入りの葉は、ゴッドセフィアナです。桃、スイトピーとレースフラワーはよく合います。ラナンキュラスは春の花ですが、レースフラワーと合わせると、色合いが素敵です。この時期のレースフラワーは、まだ温室栽培です。5月、6月の頃の花ですが、可憐でいて、合わせるもので華やかになります。ブルニアは個性的です。

 ラナンキュラスとトルコ桔梗はよく似ています。トルコ桔梗は通年手に入りますが、ラナンキュラスは春だけです。そして色も赤、黄色、オレンジとはっきりした色合いです。花は、ちょっとバラと似ています。ただ葉っぱは全然違っていて、細くしたイチョウの葉っぱのような、ふやかしたパセリのような、あまり綺麗ではありません。キンポウゲ科です。

 トルコ桔梗もバラとよく似ています。葉っぱを見るとやはり違いが分かります。それと花の付き方。トルコ桔梗は一本に花が幾つも付いています。リンドウ科です。

 それにしても、植物の名前って覚えられません。区別も難しいです。見ていると美しいのですが。

h-miya@concerto.plala.or.jp