宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

「はまぎくカフェ」第2回目

 天候に恵まれた暖かな一日、多世代サロン「はまぎくカフェ」の2回目が開催されました。今回のテーマは、「介護予防と介護保険制度について」でした。市役所の高齢福祉課の担当の方と東部お年寄りセンターのセンター長からお話を伺いました。

 最初に、シルバー・リハビリ体操をいくつかやって身体をほぐし、マスク着用のままで、歌を歌いました。「里の秋」はこの時期よく歌われていますが、戦争に出征中の父を思う歌だったと知って、ちょっと複雑な思いを感じました。

 もともとの歌詞は「星月夜」で1941年に作られています。作詞者の斉藤信夫さんは、太平洋戦争の始まりの高揚感の中でこの歌詞を作り、作曲家海沼實さんに曲をつけてもらおうと送りました。この時は曲がつけられることなく終わりました。終戦後、引揚援護局のあいさつ(1945年12月24日)の後に流す曲の作曲を依頼された海沼さんが、歌詞を探していて見つけ出したのが「星月夜」でした。ただ、「星月夜」は戦争奨励の部分が入っていたので、このままでは使えませんでした。

 斉藤さんは、戦争で戦うように教えていたことに責任を感じて教師を辞めていましたが、さっそく海沼さんから連絡が行き、歌詞の変更に取り掛かります。3番、4番の歌詞が変更され、題名も「里の秋」になったのは、放送当日だったそうです。童謡は何気なく歌っていますが、歌詞の意味をそれぞれ考えると色々な背景が見えてくる、と思います。

 その後、日本の高齢化率の話を踏まえて介護予防の話を、市役所の高齢福祉課の武内さんがしてくれました。いざ使う時の話は、東部お年寄りセンターのセンター長である軍司さんから、伺いました。65歳以上の人は、原因のいかんにかかわらず、介護や支援が必要になったら、介護保険が使えること、その際の窓口としてお年寄りセンターを利用してほしいと言われ、相談窓口をしっかり認識できました。また、40歳から64歳の第2号被保険者でも、特定疾病に該当すると介護保険が使えるということは、皆さんにあまり知られていませんでした。癌でも医学的に見て回復の見込みがない状態になった時は、介護保険が使えます。

 介護保険制度は、特に2015年の介護保険改正で創設された総合事業(「介護予防・日常生活支援総合事業」)との絡みで、複雑化していると感じます。2015年の介護保険改正で、介護保険から要支援の予防給付の一部(訪問介護通所介護)が切り離されました。予防給付のうちの、専門性の高い訪問看護リハビリテーション福祉用具貸与は、これまで通り介護保険サービスで利用できます。切り離されたものは総合事業に移行しました。

 総合事業は、従来、市区町村で行われていた介護予防事業と介護保険から切り離された要支援の介護予防給付の一部が合体して、編成し直されて生まれた制度です。介護保険制度は国の制度でしたが、総合事業は自治体の事業です。

 総合事業は「介護予防・日常生活支援事業」と「一般介護予防事業」に分けられます。一般介護予防事業の対象者は、地域の65歳の以上のすべての人で、高齢者の生活機能の改善や生きがい作りを重視した介護予防に役立つ事業を行います。「介護予防・日常生活支援事業」は要支援認定を受けた人や基本チェックリスト該当者が対象になります。チェックリスト該当者認定までにかかる日数は、要介護認定が1カ月くらいかかるのに比べて、即日から3日程度で、格段に速くなりました。

 民間の力も借りて、地域の実情に応じた介護予防サービスを目指すのが総合事業ですが、地域格差の問題が指摘されています。これからも財源の問題もあり、介護保険制度には、変更が加えられていくと思います。変更に応じて、お話を伺う必要がありそうです。

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近代の理念への怨念

 昼間は暖かですが、さすがに夜は冷えてきます。今日は、茨城のコロナ感染者が55名出ました。寒くなると感染者が増えると言われていましたが、まさにその通りの状況が、茨城だけでなく起こっています。

 新聞の整理をしていて、内山節さんの「『損か得か』の時代の果てに」(東京新聞「時代を読む」2020.11.15)を、まさにその通りと思いながら読んでいました。トランプ時代の始まりを、内山さんは1989年のベルリンの壁の崩壊に見ています。東欧圏の体制崩壊は、理念や思想をめぐる対立ではなく、「お金が儲かるかどうか」だったというのです。内山さんは「損か得かがあらゆることの判断基準になる、そんな時代が生まれた」と書いています。「社会主義という理念、思想が抑圧装置だと感じる人たちが増え」、「理念なき時代は、この抑圧からの『解放』だという感情も高めた」というのです。

 そしてこの動きは西側でも起こるようになり、西側の理念も抑圧の道具になっていると感じる人たちを生み出していたことに、世界は気づかなかった。そういう感情を利用したのがトランプ大統領だったと言われています。西側の理念とは、自由や平等、人権、民主主義などですが、これらはこの理念を支配するエスタブリッシュメントたちによる支配、抑圧の道具になっていると感じる人たちを生み出していた、ということです。これは、私も感じます。現実主義的な人たちほど、例えば社会保障制度に疑問を呈するという場面を、何度も経験しました。今回の日本学術会議の任命拒否問題に関しても、一般の人たちの盛り上がり方は今一つです。一方で、学問の自由を主張する人たちは、象牙の塔への根深い反感にどのくらい気付いているのか。

 内山さんは、社会主義であれ、自由や民主主義であれ、近代に生まれた理念が、結構多くの人からの反乱を受け、金儲けの自由だけがのさばる現在の世界はどうやって修復したらいいのか、と問いかけています。

 修復なのか、根本的に「生きることと」対峙して近代の理念を乗り越えるのか、新たな人類の生き方をめぐる実験の時代に突入しているのかもしれません。

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     2019年11月15日お昼過ぎのマリンプール。11月の今頃は、毎年お天気がいいですね。

日本の近代化と機能としての文化

 昨日今日とお天気も良く、暖かです。今年は紅葉がきれいだそうです。

 昨日、三谷太一郎さんの『人は時代といかに向き合うか』(東京大学出版会)の森鷗外歴史認識を論じている部分を読みました。鷗外が、文学者としての自分と官吏としての自分との間の葛藤をいかに乗り越えようとしたか。そこに「かのように」の哲学が使われたと言われていました。つまり、事実から区別されたフィクション(例えば神話としての天皇制)というものを、事実である「かのように」尊重する立場を持っていることが、自由への志向と秩序への志向を両立させる唯一の立場、という考え方です。そしてこの「かのように」の哲学は日本近代化を貫く基本的な哲学であった、と三谷さんは主張します。

 日本の近代化はヨーロッパをモデルとしましたが、日本にとってのヨーロッパ化、すなわち近代化は前例のない歴史形成のための実験でした。ヨーロッパはあくまで歴史的実体であって再生産されるものではありません。そこで日本のエリートたちは、ヨーロッパを、歴史的実体としてではなく、導入可能な機能の体系とみなしたというのです。その際、機能化が一番難しいのがヨーロッパ文明の基礎をなす宗教でした。しかしこれも機能として捉え、キリスト教がヨーロッパにおいて果たしている機能を天皇制で果たそうとした、と言われています。天皇制をヨーロッパにおけるキリスト教の「機能的等価物」として考えたということです。つまり、天皇信仰というものこそ、「かのように」哲学のいうフィクションとしての信仰、機能としての宗教でした。

 機能の体系としてのヨーロッパ、という発想は合点がいきます。第2次世界大戦後、日本がモデルとするものはヨーロッパからアメリカへと変わりました。ここでもアメリカという歴史的実体と切り離して、民主主義とプラグマティズム哲学及び実学の伝統を、機能として受け入れようとしてきました。その結果、目先の経済効果によってのみ学問を評価する風潮が作られました。現在、基礎研究へ予算を付けないで、即結果を出す分野への偏りが加速され、研究の創造性を生み出す「ゆとり」は、批判の対象とされるようになっています。

 文化というものの持つ歴史性の厚み。思想だけでなく技術もまた歴史実体としての厚みを持ちます。私たちはそれらを歴史から切り離して、その本質を機能的なものとして理解できると考えてきたと思います。このような歴史軽視の姿勢は、明治近代化に端を発しているのかもしれません。

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          空の青さが目に染みます(11月13日水戸駅南口ペディトリアンデッキにて)

小春日和に

 ここ数日、小春日和が続いています。今日も気持ちのいい晴れ。先月の25日から、土日だけ、また、介護系施設で働き始めました。施設によって微妙にやり方が異なるので、慣れるまでが大変です。今回もサ-ビス付き高齢者向け住宅、いわゆる「サ高住」です。高齢者の夫婦だけの暮らしや独居生活の一番の不安は、なにかあった時の対応だろうと思います。その意味で、サ高住にはずっと関心があります。ただ、現在、サ高住は特養化しているとも言われていて、実際、単に見守りだけというのは少ないのかもしれません。むしろ、地域で最後までどうやって暮らしていくか、そこをもっと底上げする必要があると思います。

 8日は久しぶりに生のピアノ演奏を聴いてきました。佐川文庫木城館で行われた「広瀬悦子 ピアノリサイタル」です。最初の曲はベートーヴェン(1770-1827)の「ピアノ・ソナタ第17番Op.31-2『テンペスト』」でした。ベートーヴェンが難聴に苦しんでいた時期(1802年31歳の時)に作曲されたものです。ベートーヴェンの苦悩とそれを越えようとするもがきが現れているような静と動の展開、劇的でかつ抒情性を持った曲です。第3楽章が有名ですが、通して聴くとその展開にやはり納得(変な言い方ですが)します。広瀬さんは最初少し緊張している感じがしましたが、どんどん乗って行った感じで、アンコールで弾いたモシュコフスキーの「カルメン」は凄かった。演奏家の緊張に聴衆も呼応して会場が一体化する緊迫感は、やはりいいものです。音楽が生まれ出てくる「瞬間」を感じます。

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人間の社会性は生得的?

 10月31日、今日は本来のハロウィンの日のようです。とても気持ちのいい一日でした。

 さて、人間が群れて生活するというのは、生得的なものかどうか。人間が自立できるまでに、私たちはかなり他の人たちの力を借ります。人間は人間の中で育つ、というとき、狼少女の話が一時よく取り上げられました。現在この話には、いろいろ疑問が出ているようです。授乳の問題や移動の問題で、乳児や幼児が狼と共同生活できるとは考えられないとの指摘があります。ここまでは前回書きました。

 狼少女の話は別にしても、16歳まで座敷牢に閉じ込められて育ったカスパー・ハウザー(1812年頃-1833年12月17日)や、アヴェロンの野生児(1788年頃-1828年)の話から、人間の育ちにおける人的環境の重要さが分かります。言語の習得や生活習慣の習得さらには人間的な感情の習得は、正常な人間関係がないと不可能であることが分かります。

 逆にチンパンジーを人間の中で育てると、どうなるか。言語獲得の段階で躓くようです。言葉による(複雑化した)コミュニケーションが作れませんでした。

 人間の社会性に関して、哲学的に考えると、人間の社会性は生まれながらに備わっているのか(生得的なものか)、それとも経験的に獲得するのか、という問題の設定になります。これを考えていたら、カントの根源的獲得としてのアプリオリを思い出しました。根源的獲得としてのアプリオリというのは、生得的でもなければ経験的でもない獲得の仕方です。アプリオリとは普遍妥当性をもち、必然的なものですが、その意味で経験的獲得的なものではありません。しかし、植え付けられた意味での生得的でもありません。生得的は植え付ける神の存在を想定した概念です。

 野生児と言われる存在が、ある一定の年齢になってから社会性をどれくらい獲得できたか。完全にいわゆる「普通の」生活を送れるようになったかどうか。訓練によって、いくつになっても社会性を獲得できるなら、人間の社会性は経験的なものと言えるでしょう。

 野生児ではありませんが、イザベル(6歳)とアンナ(5歳)の事例が報告されています。イザベルはしゃべれない母親が彼女を取られることを恐れて、囲い込んで育てました。彼女は、日常生活の習慣は獲得していましたが、しゃべれませんでした。イザベルはことばの訓練を受けると、学校に入れるようになりました。アンナは私生児であったために祖父から忌避されて、屋根裏部屋で育てられました。アンナを養女にする家が現れ、そこで生活習慣や言葉も覚え、障害児の教育施設に入りまりたが、死んでしまいました。幼児期の栄養状態が悪かったせいで、病死してしまったのです。

 人間と一緒に育てられたチンパンジーは、言葉の壁によって完全に人間的な社会性獲得には至りませんでした。人間から生まれただけでは(関係性の中で育てられないと)人間の社会性は発現しません。その意味では、生得的とは言えません。しかし、単に経験的と言い切れないのは、同じ環境で育てても、チンパンジーは人間的社会性を身に付けられません。その意味で、人間の側に社会性の素材が組み込まれていて、人間関係の経験に触発されて育っていくようです。

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      野バラの実、紅葉した雪柳、カーネーションブルースター、はまぎくの葉

人間の自立

  私たちは生まれてから一人で生きていけるようになるまで、かなりの時間がかかります。では、一人で生きていけるというのはどういうことか。生活費を稼いで経済的に自立できること、と仮に定義します。ただ、その前に、日常生活の自立があります。これは自分の日常生活を、自分でコントロールして、健康に生活できることです。ADL(日常生活動作)やIADL(手段的日常生活動作)はここに関わっています。

 社会生活自立は、社会の中で何かの役割を果たせている状態です。仕事をしていることだけでなく、地域社会や家族という単位の中で役割を担って実践している状態です。

 経済的自立は、自分の稼ぎで、あるいは遺産や年金などの自分の財産によって「経済的」に「自立」していることです。一人前になる、とか、一人前の大人として自立して生活しているというのは、まあ、この部分を言うことが多いです。

 精神的自立というのもあるでしょう。これはどういうことでしょうか。一番わかりにくい気がします。自分のことを自分で決められる力でしょうか。一人の時間を楽しめる力でしょうか。極度の依存心を持たないこと、ということは言える気がします。ただ、上手に人に頼れる力も精神的自立に含まれると思います。孤独に強いが、孤立はしない力?

 こう考えただけでも、一人前になるというのはなかなか大変なことです。そしてその獲得には集団が関わっています。この群れで獲得する力、それは群れでなければ獲得できませんが、そもそもなぜ私たちは群れて生活するのでしょうか。 

 人間が群れて生活するというのは、生得的なものかどうか。人間が自立できるまでに、私たちはかなり他の人たちの力を借ります。人間は人間の中で育つ、というとき、狼少女の話が一時よく取り上げられました。現在この話には、いろいろ疑問が出ているようです。授乳の問題や移動の問題で、乳児や幼児が狼と共同生活できるとは考えられないとの指摘があります。人間の社会性は生得的かどうか、次にそれを考えます。

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                 ハマギク

h-miya@concerto.plala.or.jp