宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

人間の社会性は生得的?

 10月31日、今日は本来のハロウィンの日のようです。とても気持ちのいい一日でした。

 さて、人間が群れて生活するというのは、生得的なものかどうか。人間が自立できるまでに、私たちはかなり他の人たちの力を借ります。人間は人間の中で育つ、というとき、狼少女の話が一時よく取り上げられました。現在この話には、いろいろ疑問が出ているようです。授乳の問題や移動の問題で、乳児や幼児が狼と共同生活できるとは考えられないとの指摘があります。ここまでは前回書きました。

 狼少女の話は別にしても、16歳まで座敷牢に閉じ込められて育ったカスパー・ハウザー(1812年頃-1833年12月17日)や、アヴェロンの野生児(1788年頃-1828年)の話から、人間の育ちにおける人的環境の重要さが分かります。言語の習得や生活習慣の習得さらには人間的な感情の習得は、正常な人間関係がないと不可能であることが分かります。

 逆にチンパンジーを人間の中で育てると、どうなるか。言語獲得の段階で躓くようです。言葉による(複雑化した)コミュニケーションが作れませんでした。

 人間の社会性に関して、哲学的に考えると、人間の社会性は生まれながらに備わっているのか(生得的なものか)、それとも経験的に獲得するのか、という問題の設定になります。これを考えていたら、カントの根源的獲得としてのアプリオリを思い出しました。根源的獲得としてのアプリオリというのは、生得的でもなければ経験的でもない獲得の仕方です。アプリオリとは普遍妥当性をもち、必然的なものですが、その意味で経験的獲得的なものではありません。しかし、植え付けられた意味での生得的でもありません。生得的は植え付ける神の存在を想定した概念です。

 野生児と言われる存在が、ある一定の年齢になってから社会性をどれくらい獲得できたか。完全にいわゆる「普通の」生活を送れるようになったかどうか。訓練によって、いくつになっても社会性を獲得できるなら、人間の社会性は経験的なものと言えるでしょう。

 野生児ではありませんが、イザベル(6歳)とアンナ(5歳)の事例が報告されています。イザベルはしゃべれない母親が彼女を取られることを恐れて、囲い込んで育てました。彼女は、日常生活の習慣は獲得していましたが、しゃべれませんでした。イザベルはことばの訓練を受けると、学校に入れるようになりました。アンナは私生児であったために祖父から忌避されて、屋根裏部屋で育てられました。アンナを養女にする家が現れ、そこで生活習慣や言葉も覚え、障害児の教育施設に入りまりたが、死んでしまいました。幼児期の栄養状態が悪かったせいで、病死してしまったのです。

 人間と一緒に育てられたチンパンジーは、言葉の壁によって完全に人間的な社会性獲得には至りませんでした。人間から生まれただけでは(関係性の中で育てられないと)人間の社会性は発現しません。その意味では、生得的とは言えません。しかし、単に経験的と言い切れないのは、同じ環境で育てても、チンパンジーは人間的社会性を身に付けられません。その意味で、人間の側に社会性の素材が組み込まれていて、人間関係の経験に触発されて育っていくようです。

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      野バラの実、紅葉した雪柳、カーネーションブルースター、はまぎくの葉

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