宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

那珂湊の漁業

 少し動くと汗ばむくらいの陽気の中、磯﨑滿さんのお話を伺いました。磯﨑さんは長らく私立中高一貫校で倫理社会を教えておられました。その時に、民俗学系の部活を手伝ったことが、那珂湊の歴史に関わるきっかけだったそうです。当時の部活の顧問の先生の出身地が山間部で、農業は分かるけど漁業は分からない、ということで手伝うことになったそうです。磯﨑さんの実家も漁業関係の仕事をしていたことも関わっているようです。

 那珂湊の大川健介さんの話が出ました。明治24年、湊町漁業組合初代組合長になった方です。大川家は菓子製造業を営んでいました。健介さんは養子に入って、明治15年に漁業に進出しました。なぜここに引っかかったかというと、父親の実家の向かいが、大川網屋でした。ここも、大川さんの親戚だった気がします。本通りの、今は総菜屋をやっている大川商店が、恐らくその大川家だなと思ったからです。友だちの曽祖父かなと思います。

 大川さんの家の話を、魚市場に勤めていた伯父からちらっと聞いた記憶もありますが、よく覚えていません。その伯父は平磯に婿に入りましたが、その平磯に居た磯崎与茂七さんは、鮪流し網の開発者です。小説にもなっているのですね。

 磯﨑さんの語り口は、聴いている人を引き込みます。それは、恐らく、磯﨑さんが面白いと思って取り組んでいるからだと思います。那珂湊の漁業は、今は、養殖に向っているとか。もともと鮑養殖は、磯﨑では盛んだったようです。那珂湊の漁港では、鯖を養殖しているという話も出ました。漁業の町は、海に開かれた町であり、昔から他の地域と交流していた話も出て、自分の生まれ育った場所を知らないことに気づかされました。この町のよく言えばいい匙加減という意味でのおおらかさ、悪く言うと「ぐちゃぐちゃ言うな」というようないい加減さは、土地柄なのかもしれません。

  

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