宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

湊村の歴史を通して

 このところ昼間は晴れて、暑いくらいですが、朝晩は涼しくなりました。先月9月28日には、「しおかぜみなとの多目的室」を会場に、第18回はまぎくカフェを開催。磯﨑滿さんによる「那珂湊の歴史」の講話会でした。

 これは、天保の検地図の写しとその下に那珂川の河口の部分を継ぎ足したものです。湊御殿の部分は白抜きになっていますが、これは海防の拠点でもあったため、描かれていないとのことです。東廻り航路を帆船で米や海鮮を運んできて、小舟で荷揚げした様子が描かれています。

 この東廻り航路を整備したのは仙台藩です。水戸藩は現在の茨城県全域に亘るわけではなく、ほぼ大洗から以北の地域でした。現在の茨城県域には、14の藩と天領、旗本領、領外諸大名の飛び地が入り乱れていました。東廻り航路を整備したのが、仙台藩というのも納得しました。仙台藩は龍ヶ崎周辺に飛び地を持っていて、涸沼湖畔の網掛に集積所を確保していました。東廻り航路は、最初はその出発港が荒浜(宮城)でした。仙台藩は、寛永年間(1624-1644)には北茨城の平潟魚港の整備を行って廻船の寄港地とし、仙台陣屋も設置していたようです。東廻り航路は、最初のうちは那珂湊か銚子で川を使っての輸送に切り替えていました。これは海の難所である犬吠埼沖の航行を避けるためでした。犬吠埼沖は現在でも海の難所と言われます。

 しかし、一代で財を築いた豪商河村瑞賢が江戸幕府から任されて、1671年に房総半島を迂回し、伊豆半島の下田沖から江戸へと直接積み荷を運び込むことに成功しました。河村瑞賢は1672年には西廻り航路も整備し、こちらの方が海路としてはよく使われました。最終的にどちらも山形県の酒田を起点にします。幕府の東北地方の天領の年貢米を運ぶための交通網の整備でした。西廻り航路は大阪に入り、東廻り航路は、江戸に入ります。ただ、航行の安全性の面からも、直接江戸まで海路で運ぶ東廻り航路は西廻り航路ほど発展しなかったようです。那珂湊や銚子で荷下ろしして、川を使って江戸に運ぶというやり方は重視されました。

 これは夤賓閣の復元イメージ図です。元の場所はもう少し下方の崖下にあったようです。そこが災害に遭って、1698年に光圀(1628-1701)の最晩年、現在の日和山に建設されました。ここも、そして斉昭(1800-1860)が建設を命じた反射炉も、天狗党の乱で焼け落ちました。

 光圀の時代に編纂が始まった『大日本史』(1657-1906)は、神武天皇から後小松天皇までを扱い、南朝を正統と論じています。これは、南朝三種の神器を持っていたこと、日本に亡命した明の儒学者朱舜水からの影響が大きいようです。この『大日本史』編纂から水戸学が始まっています。水戸学は尊王敬幕思想を掲げ、これが幕末には尊王攘夷思想に転換していきました。

 湊の江戸期の歴史を聴きながら、あまりにも知らないことが多いので、考えてしまいました。歴史を考えるとき、郷土史は出発点になります。東廻り航路のことは聞かされていましたが、西廻り航路や北前船、起点の酒田のこと等、気になって調べました。郷土史の視点から調べ始め考えるとき、色々なことが繋がっていることを、自然と得心します。湊の気風の根っこに、江戸期の廻船業で栄えた時代の名残があることや、海に開かれていることの意味など。

 街の歴史は、そこに住む人間一人ひとりの時間を当然超えています。では私たちは歴史から何を受け取るのでしょうか。何を受け取らなければならないのでしょうか。街に住むことへのコミットメントとは何なのでしょうか。

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