宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

散歩しながら

 昨日から茨城も不要不急の外出自粛要請が出ました。県立高校も来月6日まで一斉に休校になりました。

 家にずっといるとやはり身体が縮こまる感じがします。平磯海岸通りを散歩していると、走っている女性や砂浜でトレーニングする中学生くらいの男子2人を見かけました。以前は、散歩していてすれちがう時、知らない者同士でも、軽い微笑みの挨拶をしたりしましたが、今は基本マスクなので、なんか黙々と歩いている感じです。波の音や車の音はするのですが、人間同士は触れ合わない、映像を見ているような感じ。

 他人と出会うと、私たちは自然に相手に対して距離を測っています。そして、瞬間的に、どういう距離を取るかを判断して対応します。共同体意識の残っている地域は、外に居る人同士が顔を合わせるとしゃべっているのが当たり前でした。それが、今は、うろうろしている感じだけで、声が聞こえません。「私(眼)」が「世界」を構成するという図式が思い浮かんでしまいます。    

        f:id:miyauchi135:20200415005257p:plainf:id:miyauchi135:20200415130156p:plainf:id:miyauchi135:20200415005420p:plain 世界         

 見る「私」が「世界」を構成するという図式です。世界の図の左の小さなプチが眼です。大きく眼の図を左に書いていますが、本来は眼と視野との関係として一体化しています(ヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』5・6331で批判した視野の図式ですが、敢えて使いました。彼は、視野にはどこを探しても眼は属していない、視野の側から眼の存在は推論されない、と言い、そして、自我の存在を否定します)。

 普通の知っている人間同士の関わりの中では、他の人を対象化して見ている、という感じはないです。見ることは同時にそれへどう対応行動するかで、見ること(あるいは聞くこと)と行動は同時存在です。今は対応行動が抑制されていて、世界の外に自分がいる、世界を見ているだけで関わらない、という変な感じです。

 現代において、見ることの優位が何となく通用していますが、でも今回人の動き方を見ていて実感がないのは、そこに触れ合いや声が欠けるせいだと感じます。触覚が運動や「視る」ことに重要であることはコンディヤックが『感覚論』で言っています。中村雄二郎さんは視覚の働きについて、「他の感覚とくに触覚との協同によるものを‥(中略)‥単なる視覚の働きととりちがえている」(『共通感覚論』)と言います。

 私たちはよく、視覚型、聴覚型というわけ方をします。私は自分を視覚型だと思っていたのですが、今回、聞くことの、現実化に果たす大きな役割を感じています。

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          4月14日16時半頃の平磯海岸。波は結構高かったです。

h-miya@concerto.plala.or.jp