宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

紫式部の生没年は?

 連休中は、海浜公園周辺は結構人が出ていました。今日は、台風の影響が出始めています。台風というと、野分という言葉を思い出します。『源氏物語』の第27帖が「野分」でした。『源氏物語』自体は荒筋を知っているくらいで読んでいませんが、「野分」という巻名が印象に残っています。野分とは台風のことですが、台風の風の強さをうまく表していると思います。

 「野分」では、光源氏の息子夕霧が、台風見舞いに訪れて、紫の上を垣間見てしまいます。夕霧はその美貌に憑りつかれてしまうというのですが、光源氏は、そういう絶世の美人で教養溢れる人を囲い込んでいたわけです。紫の上は光源氏よりも先に死んでしまいますが、なんか儚い人生だなぁと思います。紫式部はどうしてこういう女性を描き出したのでしょう。また『源氏物語』を書いた紫式部の生没年があいまいというのも、異様な感じもします。もっとも、歴史上の有名人に生没年の不確かな人は結構多いです。紫式部は970年から978年の間に生まれ、1019年までは生きていたようです。女性の社会的地位の問題ももちろんあったでしょうが、人口把握の方法の問題が大きいのでしょう。

 そう言えば、古代ギリシアの女性詩人サッフォーの生涯もあいまいです。レスボス島で生まれ、B.C.596年にシチリア島シラクサに亡命し、その後レスボスに戻った、ということぐらいが歴史上はっきりしています。サッフォーは古代ローマでも高く評価されています。しかし、ソクラテスも生まれた年は死んだ年から推測されているわけで、そう考えると、一般人の生没年の記録が当たり前になったのは、それほど古いことではないのかもしれません。

 人口を把握するのは経済活動の規模を知り、税をかけるには大事だと思いますが、どういう風にして調べていたのでしょうか。キリスト教などでは、出生・結婚・死亡を教区簿冊に記入すると言います。中世ヨーロッパのキリスト教では、新生児洗礼の記録が保存されたため、それによって誕生年を確定できます。イギリスではヘンリー8世(1491-1547)が、教区簿冊をいわゆる戸籍関連の業務に利用した、と言われます。この戸籍(戸と呼ばれる緊密な小家族を社会の最小単位とする制度)も東アジアに広く浸透していたようですが、現在では実質日本でだけ機能している登録制度のようです。

 日本は奈良時代律令を制定し、戸籍を導入したと習ったことを思い出しました。なのになぜ、かの有名な紫式部はその生没年があいまいなのか。『日本書紀』には670年に全国的な戸籍「庚午年籍(こうごのねんじゃく)」を作ることが記されています。ただこれは現存していないので、どの程度の把握だったのかは分かりません。戸籍に基づいて班田収授法が施行されることになりました。班田収授法、習ったなぁ。確かに、人を把握しないと、土地を分けるなんてできません。

 690年に全国的な戸籍「庚寅年籍(こういんのねんじゃく)」が作成され、これに基づく口分田の班給が開始されました。この戸籍も現存はしませんが、次の戸籍(696年)を作るための移動を記した木簡が、太宰府から出土しています。正倉院文書に含まれる最古の戸籍は702年のものです。

 やがて律令制が崩れて、有力貴族による荘園(権力者の私有地)制が成立すると、全国単位の戸籍の作成は行われなくなりました。一般の人々の生きた記録が残るようになったのは、近世以降の社会で、江戸時代中期に宗教統制から民衆調査の台帳になった『宗門人別改帳』当たりからです。

 歴史的な人口推計はいろいろな資料を使って計算しているようですが、つい現代の感覚で国勢調査的なものがあったような錯覚を持ちます。日本最初の戸口調査は崇神天皇の時(紀元前86年)だったと『日本書紀』に書かれているそうです。人口を把握しようと時の権力者は思うようですが、そうそう上手くはいかなかったようです。現代の当り前は、意外なほど最近の制度から来ている。

 正確な生没年は伝わっていないのに、紫式部の作品『源氏物語』は日本だけでなく世界的にも有名です。歴史を超えて生き続ける作品。作者の創る充実感と読者が作品の世界に没頭する充実感と、どちらがより幸せなのか。ふと考えています。

h-miya@concerto.plala.or.jp