宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

気晴らしと幸福

 私たちは何を求めて生きているのか。バートランド・ラッセルは『幸福論』で、「幸福な人生は、不思議なまでに、よい人生と同じである」(271頁)と書いています。そして熱意こそが幸福と健康の秘訣であるとも。しかし中庸という、かつてラッセルが軽蔑と怒りをもって退けた教義にも意味を見い出しています。それは努力とあきらめのバランスに関してです。努力とあきらめについてはそれぞれ極端な主張をする人たちがいますが、それは間違いだと言います。

  でも、私たちは、もっと目の前のことであくせく生きている気がします。忙しいといろいろ考えなくすみます。それはそれで充実している?のかもしれません。そしてちょっとした楽しみを糧に毎日の生活を送っている。仕事帰りのサーティーワンのアイスクリームとか。

 パスカルは『パンセ』(B版139、Ⅼ版269)でこんなことを言います。誰かにのんびり暮らしなさいというのは、幸せに暮らしなさいということだが、これは人間の本性が分かっていない、と。人間はむなしく、退屈している存在。これが人間の本性だと言っています。だから忙しく動き回ります。でもその一方で、「幸福とは実は安らぎの中にしかないこと、騒々しさの中にはないこと」をも教えるひそかな本能も持っている。だから忙しなさの中にあると、安らぎを求め、それで自分は幸福になれると思っています。ところが、実際にそういう状態になると、退屈してしまうのです。

 これが分かってない人は、気晴らしをしているのに、それが実現したら本当に幸福になれるような求め方をしてしまうと言います。気晴らしとして求めているなら、それを求めていることに誤りはないというのです。

そういう騒々しさを、ただ気晴らしとして求めているにすぎないなら、それを求めているという点に誤りがあるのではない。そうではなく、今追い求めているものが所有できたら、それで本当に幸福になることができるかのような求め方をしているのが、わるいのである。

 なるほど、です。ここでパスカルが言う気晴らしと、仕事は同等の意味合いを持っています。いわゆる真面目な社会的には意味のある事も含めて、気晴らしは同じような意味を持つと言っています。これらはすべて、自分からの逃走なのです。それが分かっているかいないかで、気晴らしの求め方、仕事への向き合い方にも違いが出てくる気がします。

どんな境遇でも騒がしさや、気晴らしがなかったら、幸福ではない。どんな境遇でも、なにか気晴らしをして楽しむことができるなら、幸福である。しかし、そんな幸福とは、いったいどんなものであるかを、よく考えてみるがいい。それは自分を考えることから気をそらそうとするところにある幸福なのだ。

 三木清は『人生論ノート』「幸福について」で、「幸福は人格である」と結論します。パスカルの研究者としても知られている三木清が、こういうスタンスを取ったのはなぜなのでしょうか。幸福の問題を倫理の問題から抹殺することで、倫理的空語が生じたと三木は主張します。確かに、パスカルは倫理ではなく宗教的なものを語ろうとします。倫理を語ろうとするなら、幸福をメインにしなければならないということでしょうか。自由に軸足を置くのでなく。

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  「門つる」の海老油そば。麺は太麺でこしがあります。美味しいラーメンは小さな楽しみの一つ。

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