宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

パスカルとデカルト

 ブレーズ・パスカル(1623-62)は、神話や魔術の世界から解放された近代的人間観が成立していく時代に生きた思想家です。同時代の著名な思想家と言えば、ルネ・デカルト(1596-1650)がいます。

 『パンセ』はパスカル自身が書いた本ではなく、彼が残した膨大な紙片を元に編集された断片集です。「人間は一本の葦にすぎない、自然の中でもいちばん弱いものだ。だが、それは考える葦である」(ブランシュヴィク版347、ラフュマ版200)。この有名な部分は、どこかで聞いたり、読んだりしている人が多いと思います。

 私自身は、パスカルよりもデカルトの方が好きでした。「われ思う、ゆえにわれ在り」は、高校生の頃に出会った言葉で、目から鱗でした。思想としても追い易かったし、信仰の問題をテーマにしないところで、キリスト教の信仰を持たなくても向き合える気がしていました。今、パスカルが気になるようになってきたのは、何のせいなのか。パスカルの断章の中に、人間のあり様の深みが捉えられていると感じるせいなのでしょうか。

 パスカルは、一本の葦にすぎない人間の尊厳を、考えることのうちに見出していました。しかしパスカルは、「考えること」や理性や知性を高らかに謳い上げているわけではありません。

 「人間が偉大なのは、自分の惨めさを知っているという点において偉大なのである。木は自分の惨めさを知らない。ところで。〔自分の〕惨めさを知るのは、惨めなことである。しかし、自分が惨めだと知るのは偉大なことである」(ブランシュヴィク版397、ラフュマ版114

 惨めと知っていることの偉大さ、これはかなり逆説的ポジションに立って、人間の「知ること」、それも「正しく知ること」の偉大さを評価しています。デカルトもまた正しく考えることの方法論を模索しましたが、そのやり方は、パスカル言うところの「幾何学の精神」なのでしょう。デカルトは精神指導の規則を21あげて、解説していますが、全体としては未完に終わっているようです。

 パスカルは、神は存在するかどうかわからないが、「神はあるという側に賭けなさい」(ブランシュヴィク版233、ラフュマ版418)と書き残しています。この解決策、ある意味すごい。哲学は信仰の領域と向き合って、ぎりぎりのところまで思考します。ヴィトゲンシュタインの「話をするのが不可能なことについては、人は沈黙せねばならない」(『論理哲学論考』7)は衝撃的な言葉です。しかし、彼は黙して語らない領域への深い敬意を捨てたり、そういう領域を無視した訳ではないのです。ただ、私たちは、信仰の問題を棚上げしてもいいような、免罪符をもらったような気がしていたのではないでしょうか。

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           ひたちなか海浜鉄道 中根駅の桜(2020年3月13日撮影)

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