宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

「まさにそのこと」と言語

 今年の夏は、やたら次々と台風がやってきます。台風の影響で昨日まで涼しかったのですが、今日はまた一転して暑かったです。台風19号、20号は発生していて、週末はまた、雨模様のようですが。義理の伯母が7月末に亡くなったのを皮切りに、従弟と従兄が最近立て続けに亡くなりました。彼らの身体は朽ちて、でも彼らの想いはどこに行くのだろう、などふっと考えてしまいます。 

 精神を物質現象に還元することと、精神が物質であるということは別のことだと、前に(「人間は機械として語れるか」で)書きました。ある何かとそれを別のものに還元するというのは、分析と総合のような関係におけるずれとも言えると思います。あるものを分析し、それを元に戻すことで全体像がより明確になるという考え方は、全体は部分の総合ではない、というゲシュタルト心理学の成果によって切り崩されました。

 ゲシュタルト心理学は要素心理学に対する批判から始まりました。要素主義心理学の恒常仮説とは、一定の局所的刺戟に対して常に一定の感覚が対応するというものですが、この恒常仮説への批判は、ヴェルトハイマーの「運動視に関する実験的研究」(1912年)によって始まったとされます。これは、光の刺激が連続的に与えられると、設定の仕方によって、点滅運動が一つのまとまった運動として知覚されるというものです。もし要素主義心理学の考え方が正しければ、点滅する光は点滅するものとして知覚されなければならないはずです。

 ゲシュタルトとは、緊密に結びついたまとまりと相互関連性を帯びた全体としての構造を意味します。要素を分離するとこの構造は失われてしまい、要素も要素としての意味を持たなくなります。部分を集めると全体になるのでなく、全体としての構造の中にこそ部分が存在します。両者を切り離すことはできません。

 ゲシュタルト心理学における知覚の考え方は、その結果、「意識作用―意識内容―客体自体」という「三項図式」で捉えられるような意味での認識論的有効性を脅かすことになりました。認識論は一般に、要素的意識内容(ばらばらの意識内容)が主観の働きによって統覚され(まとめられ)、意識与件(データ)を形成するという統覚心理学的な発想に立脚してきました。すなわち、ゲシュタルト心理学によってこの3項図式が成立しなくなり、認識論の土台が切り崩されたことを意味します。

 さて、ニーチェは生成が現実であり、言語はそれゆえ現実を語れないと言いました。言語は独自の記号の世界なのです。ヴィトゲンシュタイン言語ゲームという視点もよく分かります。そして、古東哲明さんが「イデア」を「出来事の現場でぼくたちが直撃され(たましいで)よく知っている<当のこと>」(『現代思想としてのギリシア哲学』321頁)と言いますが、まさに言語や表象ではない「そのもの」のことです。

 私たちは、何かを理解するとか知るということを、隅から隅まで言語化可能とどこかで考えているのかもしれません。でも、言葉の持つ限界、特に論理的言葉の限界ということを、かつての日本の文化はよく知っていたのかもしれません。それが和歌や俳句という言語文化を生んだ。「行間を読む」という言葉がありますが、読んだものを言語化しようとすると、指の間からさらさらと砂がこぼれるようにこぼれていく、そんな感じがします。それでも、私たちは言葉にしようとします。なぜなのでしょう。言語は記号であり、「想い」より確かなものだからでしょうか。

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