宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

「自助・共助・公助」を問い直す

 今日は暑さがぶり返しました。明日以降は、ぐっと気温が下がって、秋らしくなりそうです。

 菅政権が誕生して、その支持率が74%(日経新聞テレビ東京の緊急世論調査)、発足時歴代3位だそうです。その菅さんが掲げた理念が「゛自助、共助、公助“、そして゛絆”」です。すべて言葉としては、問題ないのですが、政権が掲げる理念となると、いろいろ問題を感じます。「自助・共助・公助」は自民党自体の基本的考え方だと、モーニングショーで語られていました。

 「自助・共助・公助」はもともとは災害時の対応に使われる言葉だそうです。自力で自分の身を守って避難所など安全な所へ移動するのが自助、避難所などで互いに助け合うのが共助、そして最後に災害派遣や物資の支給などを行政に頼るのが公助。災害時に公助につなぐ数時間から数日間を生き延びるために行うのが「自助・共助」だそうです。民主主義国家である限り、私たちは法的に守られ、権力装置によって守られています。だから政府が行うことは、一貫して公助だというのです。

 政権が「自助・共助」を強調するのは確かに違和感があります。私はこの言葉を、シルバー・リハビリ体操の講習会で聞いて、納得しました。高齢社会を維持していくには、高齢者や高齢者予備軍に必要な心構えだと思ったからです。高齢者施設で仕事をしてみて思ったことは、依存が生み出す問題でした。高齢者福祉にかかる費用と人の手当の問題。入所者や入居者で、意識がしっかりしている人たちには、「やってもらって当たり前、もっと」がどうしても出てきます。人間って、どうしても楽な状態に慣れていきます。

 公的対応は認知症に関しては必要だと思います。認知症状を呈している人の場合、家族では対応が難しかったり、子どもがいなかったり、子どもも高齢化している場合があります。こういう人たちには、公的な対応が必要だと思います。

 リチャード・ローティは人間にとって重要なものは「苦痛を感じる能力」だと述べました。だから私たちは、「残酷さを減らさなければならず、苦しみを受けやすいという点で人間存在を平等にしなければならないという、最も重要な責務がある」という考えを示し、そこに「連帯」の可能性があると捉えています。この残酷さを避けることに、ローティはリベラリズムの神髄を見ています。

 民主的な社会とはどのような社会なのか。自由で平等な社会、とまず思います。しかし、内実が問われないまま「自由・平等」が掲げられると、形だけの「自由・平等」になるのではないでしょうか。これはジョン・スチュアート・ミルが『自由論』(1859)の中で明瞭に指摘しています。理念は絶えず問い直される必要があります。そうでないと、言葉が独り歩きして、各自の思い込みが入り、苛立ちも生まれてきます。

 自由とは、失敗の可能性を受け入れた自己決定であり、リスクを冒すことの尊厳を前提にした連帯に支えられるのでしょう。しかし、そういう生き方を「勝手」と捉える感受性もあります。勝手放題をして、その挙句が公助を頼りにしている、と。

 公助とは何か。公助の平等性を保証するものは何か。そこを問う必要があります。

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9月5日に頂いたお花。ばらして幾つかに分けましたが、オアシスへの花の挿し方に迷いがなく、さすがにプロだと思いました。私がオアシスを使うと、穴が沢山開いてしまって、オアシスが使い物にならなくなります。

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