宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

魂・人格(1)

 人間を人間たらしめている何か。それを何と呼んだらいいのか。魂、霊魂、心、精神と言われるような、肉体とは異なった非物質的な何か。現代では、心という表現が一番分かり易いでしょうか。人間の「いのち」の尊さは人格にある、とも言われます。しかし、これらの関係はどうなっているのでしょうか。

 ソクラテスが問題にした「魂の世話」。そしてプラトンはその魂を3つの部分から考え、アリストテレスは、すべて命あるものには魂があると考えました。魂とはどういうものなのか。

 もともとは息を意味するプシュケーの訳です。日本語でも「いのち」という言葉は「息」から派生したと判断されているようです。「いき-る(生きる)」は「いき(息)」の語形変化だと言われます。「いのち」に関しても「い(息)のうち」という意味から生じたという説や「息のち(力)」から生じたとする説などがあります。息や呼吸を意味していたプシュケーが、生命を意味するようになり、それが心や魂も意味するようになりました。「心」という場合、人間を人間らしく振る舞わせることを可能にしている何か、を想定します。

 イギリスの古典文献学者ジョン・バーネット(1863-1928)はソクラテスにおいて初めて「魂(プシュケー)」概念が、ホメロス以来の不気味な「亡霊」の意味や単なるいのちの意味を超えて、精神や意識された自我と同一視され、注意を払うよう要求される対象になった、と書いているようです(田中美知太郎『ソクラテス岩波新書、158頁)。

 プシュケーと似た言葉に、「プネウマ」があります。プネウマは気息とか風、空気、大いなるものの息、ギリシア哲学では存在の原理とされました。ラテン語ではスピリトゥス、それが英語のスピリットになりました。日本語では精神と訳されます。プネウマは超越的な外からの気息だとすると、個々人に内在化されたものが「プシュケー」と言えるでしょう。

  ではこの人間を人間たらしめる意味での魂と、人格とはどういう関係にあるのでしょうか。人格はperson(英)とかPerson(独)の訳ですが、ラテン語のpersonaに由来します。語源として言われることが多いのはギリシア語のπρόσωπoν(prosopon:顔、面、マスク)だそうです。そこから役柄や登場人物を意味し、法的主体や対象としての人を意味しました。personaはper-sono、「貫いて響く」「通して音を立てる」という意味のようです。ギリシア劇で役者が付ける仮面についている大きな口の穴から、声が発せられと仮面に共鳴して大きな声になって、客席に届くそうです。古代ローマ末期のイタリアの哲学者ボエティウス(480年-524年か525年)は、ペルソナという言葉は「響きわたる」という動詞から作られたと書いています。外に現れているその奥から響いてくるもの。これに「理性的本性を持つ個別的実体」というような定義を与えたのは、ボエティウス(『哲学の慰め』)でした。

 でも、仮面であり、表面であったもの、奥から響きわたる声を持つものが、なぜその奥そのものをも意味するようになったのでしょうか。ペルソナ概念には、見る側に現れ出る現出性と、もう一つ、ギリシア語の基体・位格(主体)を意味するヒュポスタシスの系列が融合していると、森岡正博さんは言います。ここからは、次に書きたいと思います。

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               5月10日の夕方の水田 風景

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