宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

「汝自身を知れ」(2)

 ソクラテスはよく知られているように、自分では著作を残していません。彼の言行はプラトンの対話編を通して伝えられているものが主流になっています。その他に、クセノフォンの『ソクラテスの思い出』やアリストファネスの『雲』にもソクラテスが描かれています。『雲』の中では、学校を経営するソフィストとして、ソクラテスという人物が登場します。アリストファネスは、ソフィストに批判的でした。この中でソクラテスは嘲笑されていますが、ソクラテスが46歳くらいで、アリストファネスは22歳の時の上演です。実際にソクラテスも見に行って、自分が出てくる場面で、観客に向かって立ち上がって会釈したと言われます。

 さて「汝自身を知れ」という言葉自体は、ソクラテスの言行の中に直接それほど現れていないようです。『プロタゴラス』(初期対話編)の中に、「汝みずからを知れ」と「分を超えるなかれ」という当時人々によく知られていた言葉を、デルフォイアポロン神殿に七賢人が集まって奉納した、とソクラテスが語っている部分があります。しかし、ソクラテスが「なんじ自らを知れ」を自分の行動指針としている、とまでは言っていません。中期対話編『パイドロス』では、当時流行っていた神話の寓意を探る試みにソクラテスを引きこもうとするパイドロスに、次のように応答しています。

 「ぼくは、あのデルポイの社の銘が命じている、われみずからを知るということがいまだにできないでいる。それならば、この肝心の事柄についてまだ無智でありながら、自分に関係のないさまざまのことについて考えをめぐらすのは笑止千万ではないかと、こうぼくには思われるのだ」(パイドロス岩波文庫、16頁

 パイドロスで扱われているテーマは「恋(エロス)」です。この後、「汝自身を知れ」は出てきません。ただ、ここではソクラテスが「われみずからを知る」を行動指針としているのは伝わってきます。

 「汝自身を知れ」はソクラテスの言葉のように受け止められていますが、これは神からの命令であり、ソクラテスはカイレポンの受けた神託の意味を解き明かす活動の中で、自ら自身を知っていく(いわゆる「無知の知」)という展開になっています。この「無知の知」も正確には、自分の無知を「知っている」とソクラテスが言っているわけではありません。

 始まりは、ソクラテスの友人カイレポンがデルフォイの神殿で受けた神託です。カイレポンは「ソクラテス以上の知者が居るか」と尋ね「より以上の知者は誰もいない」という神託を受けました。カイレポンはおそらく歩いて行ったのでしょう。デルフォイまでは、120キロ以上離れていますから、往復で10日位かかっていると思います。40キロくらいは散歩の感覚と、『パイドロス』を読むと分かるので、カイレポンという男の熱狂的行動パターンからするとあり得ます。

 ソクラテスはこの神託を聞いて、神さまは嘘をつくはずがない、とすれば何を言いたいのかと思案します。そして、重い腰を上げ、「知者と思われる人のところへ赴いて自分以上の知者がいることを示して、託宣を反駁しようとしました。そこで行ったのが、エレンコスとしての対話です。その結果わかったことが次のことでした。

 「この人間より私の方が知者である、なぜならばわれわれのどちらも立派で善いことは何も知っていないようだが、この人のほうは知らないのに、知っていると思っているけれど、私のほうは実際知っていないので、またその通りに、知っていないと思っているからである」(ソクラテスの弁明』角川文庫、58頁

 「知っていないので、知っていないと思っている」という表現で、知らないことを知っているとは、言っていません。ソクラテスにとって、立派で善いことの探求は、「知らないことを知っている」と言って終わりにしてしまえないものだったのでしょう。確かに「無知の知」という表現は、知らないことを肯定してしまう、ちょっと言い過ぎた表現だと思います。「悪法も法なり」はソクラテスが言った言葉ではありません。これも一般的に、ソクラテスに帰されていますが。

 面白いのは、ソクラテスは「あなたは知らない」を相手に分からせようと、嫌われるのを承知で示し続けたことです。嫌われ者になりつつあることに気づいて、彼は苦しみ恐れますが、止めません。なぜかと言えば、神託の意味を明らかにし続けることこそ自分への神の命令であり、アテナイ人には本当のことを言わなければならないと思ったからでした。アテナイ人の魂の世話を、彼はし続けたです。「汝自身を知れ」と「過重に求めるな」(神に対しという意味ではありますが)とそぐわない感じもします。ソクラテスの「汝自身を知れ」は神託の意味を解したのち、自分へ向かわずアテナイ人に向かっています。ソクラテスを動かし続けたものは何だったのでしょう。

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      4月24日 馬渡はにわ公園のぼたん桜 公園内には入れなくなっています。

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