宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

魂・人格(2)

 魂の問題を精神性のレベルに展開していったのが西洋哲学の歴史だと言われます。日本では、魂は宗教の対象であって、思想的に人格化の流れを持ちませんでした。それが日本における大衆的アニミズムの残存と言わたりします。人間における物質と異なる霊魂的なものが、精神として捉えられる道筋を、独自に思想伝統の中で育んで来なかった、と言えます。

 ヒュポスタシスを学説の中心に据えたのがプロチノス(204-270)でした。彼は「一者」から3段階の流出で世界を考えました。第1の流出で叡知(ヌース)界あるいは霊の世界ができます。ヌースからの第2段階の流出で心(プシュケー)の世界ができ、さらに第3段階の流出で物質(ヒューレー)の世界ができます。これら3つのヒュポスタシスという概念を、キリスト教会が「父」と「子」と「聖霊」の三つに読み変えました。この3つの位格(主体)が本質的に一体であると言うのが、三位一体説です。位格とは面(ペルソナ)としてそなわっている姿です。ペルソナは関係性の中で、外的に捉えられる人を意味しています。その三つの現れは、基本は同じ一つの実体であるというのが、三位一体説です。

 理性的であろうとなかろうと実体は、基体(ヒュポスタシス)と呼ばれます。このうち理性を有する基体のみをペルソナと呼んだようです。なぜなのでしょう。辿れば何らかの繋がりは見えるのでしょうが、今は問いとして残しておきます。

 「理性的な本性を有する個別的な実体」というペルソナの定義は、ボエティウス(480-524/525)によってなされ、中世を通して受け継がれました。ボエティウスは、どういうものがペルソナを持つにふさわしいかという議論をしたようです。そして、人間、神、天使についてペルソナがある、と言います。このペルソナ概念は変化していき、現代の「パーソン」概念はジョン・ロック(1632-1704)の定義を引くものだと言われます。

 ロックは、パーソンを「思考する知能ある存有者」(『人間理性論』第二巻第27章9)と言っています。これはかなり現代的パーソンの定義に近いと思います。ただ、面白いと思うのは、人間の同一性と人物(パーソン)の同一性を考察する同じ章で、盛んに霊魂が出てくるところです。ロックは、意識を重視していますが、同じ人物であると言うことは「数的に同じな霊魂で」という言い方をしています。

 パーソン概念が、現代的な身体内部に想定される精神の能力に限定されてきた背後には、人間を外側から捉える仮面から出てきた意味や神霊的存在者との関わりがあったことが分かります。人格というと、道徳性の主体としての人間という意味合いで捉えますが、その基底には、今でも、霊魂やペルソナの豊かな意味合いが含まれているのだと思います。

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