宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

ニーチェの道徳批判1)

 ニーチェは「力」という概念を使って、道徳批判をしました。徳を占有している力はどういう力か、とその由来を問題にしたわけです。善と悪の問題を、「力」という視点から見たときどう見えるのか。ニーチェはあらゆるものは、「力への意志」であると言いました。

 あらゆるものが「力への意志」であるというのは、命令し支配するものだけでなく服従するものも、自分の力への意志を放棄していないということを意味します。弱者には弱者の力への意志があります。力は量的には支配し命令する力と支配され服従する力に分けられるますが、この力量の差異は「何か量の差とは根本的に異なったもの」、「相互に還元不可能な質として」力への意志によって感受されます。「認識」は量にかかわりますが、感情(価値感覚)は質というわれわれの特異体質である「遠近法的真理」に執着します。どういうことか。

 私たちは「あの人は能動的だ」とか「活動的だ」とか、あるいは「受け身な人ね」とか、「あんまり反応しない人ね」というように評価していないでしょうか。力への意志が、力量の差異を「質」として感受するというのは、そういうことです。能動的な力とは「自発的な、攻撃的な、侵略的な、新しい解釈を下し新しい方向を定める形成的な諸力」と言われるような力であり、生とは本質的にその根本機能において「侵害的、暴圧的、搾取的、破壊的にはたらくもの」なのです。

 この力の二つの質(能動と反応・反動)と力への意志の二つの質「肯定」と「否定」から生の類型が生じます。ニーチェは、この命令と服従の力関係を類型(タイプ)同士の関係と解釈するのです。力への意志は、「おのれの価値」に基づいて解釈します。価値とは、ある形成物の保存・上昇についての観点です。おのれの価値とは、もろもろの現実の価値評価――これは良いとか悪い、あれは心地よいとか意味がないなど――がそこから生じる諸価値の根源であり、力への意志そのものの質の現れなのです。この力への意志の質を、ニーチェは生に対する肯定と否定、あるいは、肯定としての生と否定としての生と見ています。

 なぜだかその存在から力が溢れてくるような人がいないでしょうか。彼あるいは彼女はたとえ失敗しても前向きのエネルギーを失わない、という人がいないでしょうか。それが、能動的力が反動的な力に打ち勝っているような類型、上昇する生の類型である能動生成の類型です。その類型を形成する意志の質が肯定なのであり、これこそがニーチェが「生を肯定する」という表現で語ろうとしたことでした。これに対し反動生成の類型とは、反動的な力が能動的な力に絶えず打ち勝っているような類型のことです。 「私は一方、上昇する生のタイプと、他方、頽廃、解体、弱さのタイプを区別する」とニーチェは遺稿の中で言っています。

 では反動的力はどのようにして能動的力に勝利するのか。能動的力に支配されこれに従っていた反動的力が、活動しなくなってルサンチマンを形成することによってです。キリスト教道徳はルサンチマンの道徳であるとニーチェが批判するとき、そこで言われているのは、以上のような生の暗鬱化の批判であったわけです。

 このルサンチマン論は結構面白いのですが、長くなるので、稿を改めます。

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