宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

ニーチェの道徳批判2):道徳の二つの判断形式ー「よいと悪い」「善と悪」

 ニーチェは、ヨーロッパを支配するキリスト教道徳の真髄をルサンチマン(怨恨)と解釈します。ではこのようなルサンチマンの類型(反動形成の類型)がなぜ歴史的には勝利を収めてきたのか。

 まず、ニーチェの道徳的価値とは、それを掲げる類型を形成する意志の質の表出を意味します。ニーチェは能動形成の類型と反動形成の類型を区別しましたが、それぞれの意志の質が肯定と否定です。この意志の質に従って2種類の道徳が存在します。それが貴族道徳と奴隷道徳なのです。つまり、能動的で形成的な類型の貴族道徳に、反動(反応)的なルサンチマンの道徳である奴隷道徳が、なぜ勝利しえるのかということです。

 能動的な力は違い(差異)を肯定し、その違いを楽しみます。ところが、反動的(反応)的な力にとって違い(差異)は、対立と捉えられます。この不快の感情と反動的な力から見られた能動的な力の像――残虐、暴力的、抑圧的――は、反動的な力が能動的な力に支配されて活動的である間は、傾向性にとどまっています。

 例えば被害者意識は誰の中にでも生じえますが、普通に生活が展開しているときは忘れたり、思い直したりしてバランスが崩れることはありません。しかし何かがきっかけとなって、外部との通路が切れると、妄想が膨らみ始めます。同じように反動的な力が活動的であることをやめて、受動(感得・感情)的になったとき、反動的な力は自分の無能力に傷つき、憎悪と復讐の精神を巣くわせるようになります。反動的な力は、活動的であることをやめることで、能動的な力の支配から逃れ、能動的な力に打ち勝つのです。

 この二つの道徳はそれぞれ別の価値判断の形式を持ちます。貴族道徳の価値判断は「よい(優良)とわるい(劣悪)」であり、奴隷道徳のそれは「善と悪」です。貴族道徳の「よい」は高貴なものたちがあらゆる低級なものたちに対して、自己及び自己の行為を「よい」と感じ「よい」と評価することに発します。

「高貴と距離のパトス、すなわち低級な種族つまり<下層者>にたいする高級な支配者種族の持続的・優越的な全体感情と根本感情、――これこそが<よい(グート)>(優良)と<わるい(シュレヒト)>(劣悪)との対立の起源なのである(『道徳の系譜』第1論文)

 ニーチェは「よい」という語は本来、権力の点で優位にあるものが、自らの現状を名指す言葉であったが、それが自らの主観的特性への名称になり、やがては精神的高貴さだけの名称になったというのです。この貴族的価値評価における否定概念「わるい」は、自分たち高貴なる者と異なる存在への軽蔑を意味しますが、「不幸な」「気の毒な」「痛ましい」「惨めな」「臆病な」「哀れな」という意味合いを持ちます。そこには「一種の憐憫、思いやり、寛恕」が混じっているとニーチェは述べます。

 これに対し「善と悪」というルサンチマンの道徳の判断形式は、自分をストレートに肯定できないので、「外のもの」、「他のもの」、「自己ならぬもの」に対してまず「否」と言います。外からの刺激を受けて動き出すわけです。道徳が成立するのにまず対立的な外界が必要で、対立物との対比で、「それとは違う自分」を「~でない私」という形で肯定し、それを「善」と呼びます。道徳における奴隷一揆は、このようにルサンチマンが創造的になり、価値を生み出すようになったときに起こったのです。

 抑圧されるものたちが、抑圧するものたちを「悪い」と語り、それと異なる反対の抑圧される自分たちの方が「善い」と語りあうこと自体は、なんの不思議もないと言われます。抑圧者たちはそれを余裕を持って眺めていたことだろうと。しかし、ニーチェは強さが強さとして現われないことを求めるのは、弱さに対してそれが強さとして現われることを求めることと同様に背理であると言います。ところが、ヨーロッパの歴史においてはこの背理こそが、キリスト教道徳の価値として勝利を収めてきたのです。そこにはどのような虚構の創造がなされたのでしょうか。

h-miya@concerto.plala.or.jp