宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

ニーチェの道徳批判4)禁欲主義的理想の意味するもの

 今日は前庭のぼうぼうになっていた木の残りを剪定しました。風が少し涼しくなりましたが、まだ動くと汗が出てきます。23日が処暑でしたが、逆に暑くなりました。「暑」がつく言葉は三つあって、7月7日が小暑、7月23日が大暑、そして8月23日が処暑です。

 さてルサンチマンの道徳は、強さが強さとして現われることを「暴虐」として悪と評価します。では、善として掲げられるものはどのようなものでしょうか。それをニーチェは禁欲主義的理想と言います。禁欲主義的理想の三大表現とは、清貧、恭謙、貞潔です。しかしなぜそのような人間の自然に逆らうような善を受け入れるのでしょうか。プラトンは四元徳の一つとして節制の徳をあげましたし、アリストテレスは<程よい欲望>という意味で中庸の徳として節制を言いました。欲望が弱すぎる不感症は決して望ましいものとはみなされませんでした。

 それにもかかわらず、禁欲主義的理想はなぜ掲げられ、賞揚されるのでしょうか。それはルサンチマンの類型(人間は一般的に病気です)が解体の危機に瀕しているからであり、外に向かって吐き出されない残忍さは内向し、自分自身を苦しめようとして「良心の疚しさ」が案出され、自分自身の自然、天真、事実に対して「否」を言うようになったからです。つまり苦しさの理由が与えられたのです。禁欲主義的理想の前で不完全な自らを、自分の良心が責めているんですよ、と。

 しかしながら禁欲主義的理想は、その生存形態によっていろいろなものを意味します。偉大な、生産的、独創的精神の人々には、この三つのもの(清貧、恭謙、貞潔)がある程度まで常に見出されますが、それは彼らにとって徳ではなく、彼らにとっての最善の生存、豊饒性のための自然な条件です。ニーチェが批判するのは、禁欲主義的理想そのものが目指されている状態です。なぜならそれは、人間の自然を否定し、虚無を欲することになるからです。そこから見えてくるものは何か。

 禁欲主義的理想は、ルサンチマンの類型が抱えている苦悩と自己解体の危機に対処するため、苦悩に理由を与えることで、苦悩を和らげたと言われます。まず、禁欲主義的僧侶は、苦悩者の関心を苦悩からそらすために小さな喜びを処方します。慈善、施し、慰安、援助、励まし、力づけ、賞揚などの<隣人愛>を処方します。これらに必然的に伴う<極小の優越感>の幸福こそ、生理的障がいの所有者には常用の慰藉手段なのです。相互慈善という畜群生活は沈鬱との闘いの中での決定的前進であり、勝利であると言われます。

 アディクション克服にあって、相互援助ということが言われます。また、「人生は生きるに値するか」などのような大きな問題を抱え込んでいるとき、小さな日常的出来事や助け合いが視点をずらしてくれて、解放してくれます。そうやって心の状態を整えた上で、問題に向き合うとき、問いの立て方を変えることができます。その意味で、苦悩者の関心を苦悩からそらすための小さな喜びの処方、という解釈はあながち間違っていません。

 次に禁欲主義的僧侶がしたことは、沈鬱の不快に打ち勝つために、負い目の感情(疚しい良心)を利用します。負い目の感情は、本来良心とは何の関係もありません。ニーチェは「良心――主権者的な誇らかな自由の意識」と「疾しい良心」とを別ものと捉えます。良心の働いている状態が疾しい良心なのではなく、「良心」を持つことができるのは能動的な力の類型だけであって、疾しい良心は能動的な力が内向し、自己自身に対してだけ爆発するようになった自由の本能であり、病気なのです。これは自虐への意志であり、この意志は苦痛を増殖させるために、自己の本性である「利己的であること」を否定するために、「非利己的なるものの価値」を生み出しました。非利己的なるものの前で、良心が疾しさを感じるのではなく、その逆に、「疾しい良心」が非利己的なるものの価値を生み出したというのです。そしてこの非利己的なるものの価値は、神にその起源を見出すことで、揺るぎ無いものとなりました。

 ルサンチマンの類型は苦悩と自己解体の危機に絶えず曝されています。「『私は苦しい、これは誰かのせいにちがいないのだ』――こうすべての病める羊は考える」。これに対して、禁欲主義的僧侶(ケアするもの)はこの苦悩の原因の方向転換をします。禁欲主義的僧侶は言います。「『そのとおりだ、私の羊よ! それは誰かのせいにちがいないのだ。が、この誰かというのは、じつはお前自身なのだ』」(『道徳の系譜』第三論文15)と。

 苦悩とは、非利己的なるものの価値の前での、疾しい良心なのです。すなわち、動物的な「疾しい良心」の利用によってルサンチマンの人間に、苦悩の意味を与えることに成功したわけです。自虐への意志は、自己の自然、天真、事実の否定である「非利己的な価値」を生み出し、苦しむことの理由を作り出したわけです。「意志は何も欲しないより、虚無を欲する」(『道徳の系譜』第三論文1)。なぜ人は非利己的な価値に引き付けられるのか、という問いに対するニーチェの答えがこれでした。

 ニーチェが批判したものは、創造性を抑圧する「同調圧力」であり、差異への憎しみであったと思います。ニーチェの「強い・弱い」という「力」の観点からの解釈は、単純な現実的力の強弱というより、自己肯定の有無を巡っていると言えるでしょう。 

f:id:miyauchi135:20170828184957j:plain 

スモークツリー、トルコキキョウ、ニューサイラン、ヒペリカム(赤い実)、アルストロメリア(白い花) 

h-miya@concerto.plala.or.jp