宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

ケアにおける客観性4)ーー生の「展開」から評価する

 ケアにおける客観性をニーチェの系譜学の手法から考えてきました。取りあえずまとめておきたいと思います。

 ニーチェの系譜学的解釈は、解釈の良し悪しを、複眼的に解釈する技術です。生の遠近法の創造性と解釈している力の質を、生肯定か生否定かという基準から、解釈の価値を判断評価します。ケアにおいて相手に寄り添うというとき、この複眼的解釈と解釈の意味を精査する基準点は重要になってきます。

 例えば、『道徳の系譜』の第3論文では、「禁欲主義的理想は何を意味するか」が問題にされています。禁欲主義的理想は、哲学者や学者にとっては、「至高の精神性の有益な諸条件の一つ」ですが、生理的に変調をきたしている者にとっては、自分たちは「この世に適応するには<善良でありすぎる>と見せかけようとする一つの試み」だと言われます。

 ニーチェは、一見同じように見える解釈が、解釈する生の必要性から切り離せないことを指摘しています。解釈はこのように、生理的状態の「徴候」として多様です。系譜学的解釈は、解釈の系譜(価値の発生)を問うという形で、価値解釈を価値を占有する力の位置と関係に解体します。

 価値解釈を生存の中で記述する。例えば、自己犠牲の徳を、生存の必要性の中に位置付け直すことで、ある意味自分を縛ることや自分に酔うことから解放すると言うことです。自己犠牲の徳の意義をすべて否定するつもりはありません。それが何を意味するかを問うと言うことです。それは道徳的価値解釈を、道徳的価値体系の中の一部としての位置づけから解放します。このような批判は、現存の秩序を基礎づけるための吟味ではなく、新たな創造(解釈)へと向けられたものです。

 そしてもちろん、このような系譜学的評価もまた、遠近法的であり、相対的なものになります。

「『私の判断は私の判断だ。他人がこれをあっさり自分のものにする権利などありはしない』――おそらくこう未来の哲学者は言うであろう」(『善悪の彼岸』43)

 系譜学的評価は、それゆえ結果責任を引き受ける判断でもあります。系譜学的解釈はルールを立てません。それは多様な価値解釈に個別的に加えられる系譜(価値発生)の検討なのです。一般的解釈を生み出すルールに帰着するなら、普遍的原理主義の立場になってしまいます。

 しかしニーチェの系譜学の立場は、何でもありの否定も肯定もしない懐疑の立場ではありません。それは評価判断する立場です。多くの遠近法を自在に駆使し、かつテキストに忠実な文献学的慎重さによって注意深い客観性の立場を保ちつつ、生肯定か生否定かの規準から、それぞれの価値解釈に評価判断を下します。そうすることで、判断を下してその結果を引き受ける勇気と、自らの責任によってそれをなすという自立自存の能力も生み出されます。

  ケアにおいて相手に寄り添って解釈判断すると言うことは、相手の判断を自分の判断として鵜呑みにすることではありません。その意味で、多数の遠近法を自在に操る能力と原典をゆっくり深く読む、「よく読む」技術としての文献学的能力は、重要になってきます。問題なのは、そこで何を基準にそれぞれの解釈を、評価判断するかということです。ニーチェでは生に無垢を取り戻し、創造性を取り戻すために、解釈をしている生の質が「生を肯定しているか否定しているか」が基準でした。

 では、ケアを必要とする一人ひとりが持っている解釈の意味を、ケアする側はどこから評価判断し、どのように応答してゆくか。それは介護を必要とする人たちが、介護する側に示している「(人間が)生きるということそのもの」とつながっていると思います。生の可能性としての、生の(直線的発展・進歩ではない)「展開」という視点が出てくるのではないでしょうか。

h-miya@concerto.plala.or.jp