宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

観ること:知覚の客観性2)

 「客観性」という言葉に終始批判的だったメルロ=ポンティは、それが自然科学における固定的なものの見方をあらわす言葉としての使用に反対していました。しかし『知覚の現象学』の中で、知覚の客観性という点について、「最適性」と「特権性」を語ります。私たちが何かを見るとき、一番対象を捉えるのに適したところから見る。それが最適性であり、そのとき実現されているのが特権的知覚です。その定点が「成熟点」と言われます。このような瞬間を、メルロ=ポンティは「規範の誕生」と呼びました。これは知覚主体との緊張関係の中に実現されていますが、私たちが絵を観るときの状態を思い出すと、分かり易いのではないでしょうか。

 ゲシュタルトとは、私たちの脳内にあるのでもなければ、要素的刺戟から構成するものでもありません。メルロ=ポンティは「形態とは世界の出現そのもののことであって‥‥‥それは一つの規範の誕生そのものであって、〔あらかじめある〕一つの規範に従って実現されてゆくというものではない」(『知覚の現象学 1』116頁)と言います。ゲシュタルトとは、それ以上遡れない根源的形式のことであって、内面的なものを外へと投影することではありません。内面的なものと外面的なものの同一性だと言われます。科学の出発点になる客観的知覚は、このような特権的知覚と言われるものです。

 また私たちが遠近法を持って生きているにしろ、その遠近法は全く恣意的なものではなく、それは「そのようにしか見えない」知覚の構造の中にあります。遠近法的変形を私たちが理解するのは、「私が身体をもち、そしてこの身体によって私が世界に対する手がかりをもっている」(『知覚の現象学 2』147頁)からです。そうでなければ例えば1メートル先のあるものと、100メートル先の同じものをどうやって同じと見分けることができるか、理解できなくなってしまいます。この身体を軸に位置、距離、現われを同定する特権的知覚。これは「三つの規範を同時に満足させる成熟点」(同上書、146頁)に収斂し、この特権的知覚によって私の知覚過程は統一性を保証されて(安定して)います。そして知覚の基準点のために私の身体が世界に対しての手がかりになるのです。

 ジェームズ・J・ギブソンは認知における対象の不変項という概念を提示しました。メルロ=ポンティは知覚から出発し、知覚の創造的側面にさらに歩みを進めました。すなわち、解釈が重要性を持つ世界と知覚の関わりを描き出したわけです。

 メルロ=ポンティギブソンも知覚現象に対する物理的実在の優位性や先行性に否定的でした。そして二人とも物理的世界にたいして、知覚世界の直接性、先行性を主張しました。ケアを通して見えてくるものは、やはり知覚世界の直接性であり、先行性だと思います。それと同時に、ケア関係の中にある創造性は、単に知覚を生態学的世界の不変項を把握する、と考えると行き詰まります。各自の、それぞれの身体性を含めた規範の誕生としての特権的知覚、それによって出現した世界との関わりが重要であり、その世界は知覚する主体との緊張関係の中に保たれています。

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