宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

自我の成立

 久しぶりに休みの日の晴れ間。草取りを少ししました。

 さて、西洋近代哲学は「私」の感覚の自明性から出発します。近代哲学は、認識論的性格を持ちます。「世界とは?」とか、「よく生きるとは?」というような根本的な問いと向き合ってきた哲学者たちが、問いの方向を変えるようになります。自らの認識能力の検討が必要なのでは、という問題意識を持つようになりました。「一体私たち人間は、何をどこまで知ることができるのだろう」と。それを最初に徹底してやったのが、ルネ・デカルト(1596-1650)でした。そして、方法的懐疑という手法で、到達した哲学の第一原理が「われ思う、ゆえにわれ在り」でした。神さまや外界や自分の身体さえも疑うことはできるが、その疑っている瞬間には疑う「私」が存在しないとおかしい、ということです。こういう思惟する存在としての「私」の自明性。

 ところで「私」の感覚って何なのでしょう。哲学での「私」というと他者と明確に距離を置いた「自己意識」であり、この「私」の感覚は自明であるところから始まります。しかし、生まれたばかりの頃は、自分と他の人の区別はないと言われます。自分自身の意識の発達は、自分の身体を通して、自分と外界との物理的境界を知ることから始まると言われています。メルロ=ポンティは、1950年から1951年にかけての年度のパリ大学文学部での児童心理学の講義録「幼児の対人関係」の中で、臨床心理学研究に基づいて、自我の成立を詳細に記述しています。誕生直後の感覚は、内受容的です。これは身体の内側での刺激を感受する状態です。外受容性(視覚的・聴覚的知覚など、外界に関わる知覚)は、たとえ活動を始めていても、内受容性と協力して活動はできない状態です。最初、身体は「口腔的」なもので、幼児は何でも口によって探ります。外受容的領域と内受容的領域の接合は、生後3か月から6か月くらいの間に漸く始まります。

 幼児が自分の片方の手でもう一方の手をつかまえ、まじまじと注視する。そしてその傍の手袋と自分の手を見較べ、動く自分の手に見入る。こうした経験の中で、<見られる身体>と<内受容的に感じられる身体>の対応関係に慣れて、身体図式が整っていきます。これは同時に他人の知覚が整ってくることでもあります。

 生後3か月までは幼児には他人の外部知覚はありません。誰に抱かれて心地よいかのような自分の身体の中に感じる状態変化に対応して、笑ったり、泣いたりします。外受容的に作用する最初の刺激は<声>だろうと言われます。その後、視覚的知覚が発達するにつれて、伝染泣きの反応が消えていきます。これが3か月を過ぎる頃です。6か月を過ぎる頃になると、幼児は鏡に映る自分の身体像を理解するようになります。

 10か月頃には、乳児は探索行動や環境変化への働きかけを始め、障子を破ったり、棒でおもちゃを叩いたりするようになります。面白そうなことを探して行動するようになるのですが、ときに周りの者に阻止されるようになります。躾が始まり、乳児はフラストレーションに陥り、要求を阻む者に反抗します。反抗によって他者の意志とぶつかり、大きな悲しみや不安を経験します。その結果、他に対する「自己」の意識が明瞭になっていくと言われます。2歳頃までには言葉の獲得とともに、明瞭な自己意識を持つようになります。

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             知り合いからいただいた苺が実をつけました。

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   赤く色づいた一粒の苺は蟻にかじられていました。他にも全部で8つくらいの実がついています。

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