宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

指示の前の信頼関係

 7月に入って、台風の影響もあって少し凌ぎ易い気温です。風の通る場所では、半袖で肌寒いくらい。

 職場のミーティングの後、カピアンコーヒーに寄りました。お客さんは少なかったですが、コーヒー店で本を読むという以前の習慣が、わたし的には戻りつつある感じです。

 ケアにおける感覚や知覚の問題を考えています。他人を理解するとき、言葉の役割よりも非言語的な部分大きさは言われます。子どもとの意思の疎通では、言葉による交流の前提になっている信頼関係の大きさを嫌というほど感じさせられます。同じようなことを言っても、誰が言うかで、子どもたちの反応が大きく異なります。

 大人になると、そこをオブラートに包んで「言葉」で対応しようとしているなぁと、つくづく思います。人間関係の根本にある信頼関係はどこから出てくるのか。

 子どもたちに何かを指示するとき、彼らが何に反応しているのか。よくよく観て取らないとまずいと感じています。

               カピアンのチーズケーキセット

お花の先生の足首の怪我

 22日に久しぶりにお花を生けることが出来ました。2か月お休みが続きました。教えてくれる先生の足首の骨にヒビが入ってしまい、車の運転も出来ない状態が続いたためです。久しぶりの生け花は楽しかった。それにしても、ちょっとしたことで大怪我になってしまい、不自由な生活をせざるを得ないことを、怖いなぁと感じました。洗濯物を干すときに、ホースに足が引っかかり捻ってしまったそうです。最初は捻挫と思っていたそうですが、整形外科でレントゲンを撮ってもらったらヒビが入っていたとか。ギプスで固定し、それを切る時のギプスカッターの音が嫌だったそうです。なんか聞いているだけでぞくぞくしてしまいました。

 もう少し若い頃は、怪我することにもっと鈍感だった気がします。中学生は部活等で怪我する子は結構いるようで、塾の生徒を学校までお迎えに行くと、松葉杖をついて親御さんの迎えの車に乗って帰る子に何人か会いました。まぁ、そういうこともあるなぁ、くらいの感じで見ていました。わが子も中学生の時、部活の柔道で肩の骨を骨折したことがあります。

 ヒビが入っても骨折でも、基本は骨がくっ付くまで待つしかない。そんなものだと思っていましたが、今回、先生の話を聞いていて、その不便さに、これは大変なことだなぁと感じました。履く靴も難しい。両方の足の甲の高さが釣り合っていないので、靴をどうするか困ったそうです。「この靴ばっかり履いているのよ」と言って見せてくれました。とてもおしゃれな方なので、辛いものがあると感じます。私も捨てようと思っていた少し伸びた靴を、捨てるのを止めました。なんかの時のために。

 ゆっくり丁寧に動くことを基本にしていこうと、肝に銘じました。なかなか難しいのですが。

             ドウダンツツジ、ユリ、(小)紅花

終活

 15日のはまぎくカフェで、すごろくトーキングpart2をやりました。終活をめぐる話題も組み込んでのすごろくでした。皆さんの話を聞いていて、終活そのものというより、だんだん色々なことが出来なくなっていく中でどう暮らしていくか、に関心が集中していると感じました。

 車が運転できなくなって買い物をどうするか、病院をどうするかと考えると心配になる、にはグループのみんなが賛成しました。その結果、交通の便が良くて近くにいい病院があり、スーパーがあるところで暮らしたい、という結論になるとの意見に、なるほどと思いました。

 東京の住宅地では、昼間に徒歩で買い物をする人たちが、リュックを背負ったり買い物用のカートを引いていました。確かに、牛乳や野菜や洗剤など幾つか買うと、かなりの重さです。手提げで持って、10分歩くのはきついです。

 地方で暮らしていると車の運転が当たり前で、買い物には当然のように車で行きます。車の免許を返上した後どうするか。ウーン、不便です。これ、何とかする工夫ないものかなぁ。病院に行くのも大変です。

 高齢期の日常生活をどうするか、はまさに課題だと思います。終活というより、日々の生活の困りごとをどうクリアしていったらよいか。ここがまずは問題だと、改めて実感させられた回でした。

            パブロ・ピカソゲルニカ」の一部模写+

安楽死の倫理的問題

 授業の感想の中で、学生から「安楽死の倫理的問題」についての質問が出ました。まだ、触れていない部分ですし、今回の授業では「死をめぐる倫理的問題」はあまり触れる時間がありません。ここで少しまとめておきたいと思います。

 現在、安楽死という言葉は、「苦痛の除去のために意図的に死を引き起こす『安楽にするための死』という意味」で使われています。終末期の患者への医療上の処遇を意味します。

 安楽死は、ⅰ)患者を死に瀕した耐えがたい苦しみから開放すること(死をもたらす目的)とⅱ)他者が人為的に患者の死期を早める(安楽になるための方法)からなります。ⅰ)の前提として、「不治の病・死の切迫・耐えがたい苦痛の存在」があり、かつ「患者の意思表示の存在」が必要になります。患者の意思表示がないものは殺人罪に当たります。

 ⅱ)に関しては、積極的(作為的)安楽死「致死量の薬物注射などで死に至らしめる」、消極的(不作為的)安楽死「延命治療の中止。自力で栄養を摂取できない末期患者に栄養や水分を与えない」、間接的安楽死モルヒネなど鎮痛剤の投与(苦痛の緩和目的の行為)が結果的に死期を早めてしまう、の区別があります。

 間接的安楽死に関しても患者本人の同意がないと、未必の故意による殺人行為の問題が出てきます。未必の故意とは、もしかしたらそういう結果になるかもしれないけれど、まあそれならそれでいいという心理状態を表す法律用語です。

 消極的安楽死尊厳死の区別はどうなるのか。尊厳死リヴィング・ウィルを前提に、延命治療の不開始・中止によって死期の引き延ばしを止めることです。消極的安楽死は死期を早める目的でなされますが、尊厳死は死期の引き延ばしを止めることで、目的からは区別されます。しかし、方法的にはこの両者は区別が難しい。法律的には、消極的安楽死が嘱託殺に該当する可能性があるのに対し、尊厳死は治療義務の終了を前提としていて、殺人行為とは言えません。ただ、日本の法律には明確な規定はないようです。

         頂いた写真です。

小満(しょうまん)

 カレンダーを見たら、「小満(しょうまん)」と書かれていました。聞きなれない言葉です。気になって調べました。24節気の一つで、草木が成長し始めてある程度の大きさになる時期のことです。庭の雑草が気になってますが、そういう時期かと納得です。

 24節気とは1年を24に分けて、季節の名称を付けたものです。日数で分割する方法が平気(恒気)法で、もう一つ、太陽の通り道である黄道を24等分した定気法があります。日本では江戸時代の天保暦(1844年から1872年まで用いられた)から、定気法になったようです。

 因みに、元号は645年に付けられた「大化」が最初です。元号を付けるルールは、「明治」からは天皇即位によって、になりました。それ以前は、天変地異(良いことも悪いことも含め)が生じた時などに、リセットの意味で変えていたようです。

 さて、小満は黄経60度です。天の赤道(地球の赤道面を天球まで延長して、天球上に交わってできる大円)に対して、太陽の見かけの動きを表す黄道は約23度26分傾いています。重なる点が、春分秋分ですが、春分点を起点(0度)として黄道を360度に分けたものが黄経です。秋分点は黄経180度に当たります。

 立春から数えて8番目。その前が立夏(ここのところ5月5日)でした。春が極まり夏の気配が立ち始める日が立夏ですが、春分夏至の中間です。立秋(今年は8月7日)までは暦の上では夏です。カレンダーの絵柄を夏風に変えました。

 

2020年5月20日の田んぼ(小満は農家が一安心できる、      2022年5月21日の畑の雑草

に由来するとも言われます)                 

健腸長寿

 今日のはまぎくカフェは、「腸と免疫のお話」。講師は水戸ヤクルト健康教室の波多野さん。元気溢れるパワフルウーマンでした。

 ヤクルトは乳酸飲料としては少々値段が張ります。でも今日の話を聞いて、納得した部分があります。ヤクルトの乳製品の多くは、特定保健用食品です。

 ヤクルトの生産・販売は、1935年から始まり、1938年に「ヤクルト」の商標登録がされました。出発点は、ヤクルトの父と言われる代田稔(1899-1982)さんが、1930年に、腸まで生きて届く乳酸菌の強化培養に成功したことです。これが「ラクトバチルス・カゼイシロタ株ヤクルト菌)」でした。「ヤクルト」という名前はエスペラント語でヨーグルトを意味する「ヤフルト」から来ているそうです。ヤクルトを世界中の人へ、という代田さんの思いが込められている、と言われます。そして、代田さんの信念は、「予防医学」、「健腸長寿」、「誰もが手に入れられる価格で」というものでした。この3番目に関しては、ビジネス化していく中で変わらざるを得なかった、という気がします。

 腸が健康に果たす大きな役割への着目。病気に負けない身体をつくる、という代田さんの信念。そこには、故郷の伊那谷の貧しさの中で、栄養が取れず、体力が付けられないことで亡くなって行った多くの子どもたちへの無念な思いがありました。

 腸の中には悪い菌と良い菌、そしてそのどちらでもない日和見菌が住んでいます。約100兆個に上る腸内細菌は、腸内フローラという腸内細菌の微生物群集を構築しています。日和見菌は全体の約7割で、善玉菌、悪玉菌のうち数が多い方に味方します。日和見菌は、腸内フローラを形成(理想は2:1:7)する上で大きな役割を持っています。通常は善玉菌に加勢するようですが、悪玉菌が増えて2割になると腸内環境が一気に悪化します。シロタ株は胃酸に負けずに腸まで届いて、善玉菌を増やすそうです。

 腸の仕組みと役割を少しだけ理解できました。みんなで飲んだヤクルト400、美味しかったです。

 

終活をめぐって

 東京へ向かう高速の渋滞がニュースになっていました。新型コロナ感染が始まって以来、何の法的拘束もない初めての大型連休で、観光地の混雑ぶりが報道されています。今回の結果がどう出るか、ちょっと心配ではありますが。

 6月のはまぎくカフェで、終活の話がテーマとして出ています。ただ、どういう話を皆さんが望んでいるのか分かりません。参加者に、思いを色々話してもらえるような仕掛けが必要です。4月に途中で終わってしまったスゴロクを作り直そうか、という話も出ています。

 今、5月から始まる授業の準備をしていて、治療をめぐる本人、家族、医師のそれぞれ望んでいることや価値観が微妙にずれている事例を検討しています。現実は対処法が一つしかないことは稀で、悩ましいことが多いです。

 事例は、一人暮らしの88歳の女性が急性骨髄性白血病を発症して、その一回目の治療が終わり、次の治療に移ろうとしている段階です。本人は、もうあんな辛い思いはしたくないという思いが強く、治療に積極的になれていません。ただ、家族の思いや医師や看護師には感謝していて、あまり対立したくないと思っています。医師は治療が順調に来ているので、次の治療にはいれると考えています。そして、寛解(症状が安定して落ち着いている状態)まで持っていければ、家から通院してもらえると考えています。娘は、治療を続けて長生きしてほしいし、退院したら一緒に暮らす準備をしています。

 こういう例は結構あると思います。年齢的にも本人としたら、もうあまり辛い思いはしたくないというのもよく分かります。生活の質を重視したい。家族や医師は、出来ればもう少し生命を延ばす治療を重視したい。

 88歳という年齢は、平均寿命(2021年7月現在、女性は87.74歳、男性は81.64歳)であり、ある意味いかに人生を締めくくるかに気持ちは傾いていると思います。残りの人生の時間を大切にしたい。

 人生をどう終わらせるかは、考え始めると難しいです。少なくとも、何をしておく必要があるのか、何を書いておいたらいいのか。ピンピンコロリ(PPK)という言葉がはやったことがありますが、それは皆さん望むことだと思います。でも、その前に何をしておいたらいいのか。

            平磯海岸のハマヒルガオ(2022年5月4日)

h-miya@concerto.plala.or.jp