宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

デカルトが疑ったもの

 ルネ・デカルトは言わずと知れたフランスの哲学者であり、数学者です。17世紀の前半に活動し、近世哲学を牽引した人です。哲学の出発点には古代ギリシアの3人が居ますが、近代の哲学はデカルト共に始まったと言っても、言い過ぎではないと思います。

 デカルトの有名な言葉「われ思う、ゆえにわれ在り」は、徹底した懐疑(方法的懐疑)の果てに辿り着いた境地を表しています。彼の懐疑は、真理への徹底した疑いを超えて、自己の存在そのものも疑ったのでしょうか。

 「われ思う、ゆえにわれ在り」についての教科書的説明は、おおよそ次のように言えると思います。絶対確実な知識を求めて、存在するものをすべて疑った末に、その疑いの方向を疑うということそのものに向けた時、疑うことのできない確実な真理が見出される、と。つまり、何かを疑っているその時、疑っていることそれ自体は疑えないし、疑っているのが「私」であることも疑えない、ということです。まさに、考える私の存在は、疑っている限り疑えない。

 でもこの「考える私の存在」ってどういうことなのでしょうか。デカルトの言葉から出てくるのは、考える何ものか、がその瞬間は存在するということです。考えるのを止めると存在しなくなる何か。フッサールは、これを「意識」という観点からとらえ直します。

 「私」はどこへ行ったのか。そもそも「私」とは何なのでしょうか。

パブロ・ピカソ「大きな横たわる裸婦」1942年作(ピカソとその時代』国立西洋美術館2022年11月24日撮影

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