人間は泣きながら生まれてきます。死んで行くとき、笑みを浮かべてあるいは穏やかにあるいは苦悩であれ怒りであれ、奈良東大寺戒壇院の四天王のような昇華されたお顔で亡くなりたいものです。それが人生を生き切ったということなのではないでしょうか。人間の幸福は、今この瞬間に没頭し、感動できることとも言われます。そして、死によってしか、完成しないのかもしれません。しかし、人間の世界は自分の死後も続いて行くと、前提していると思います。それは、自分の周りに生まれている新しい生命への無条件の感動の中で。
ハンナ・アーレントは、『人間の条件』の中で、人間の活動力を、労働、仕事、活動の三つに分けています。労働は人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力で、生活の必要物に拘束されています。仕事は、人工的世界を作り出し、それぞれ個々の生命が自分の居場所を見い出すことに関わる活動力です。仕事を通して、「死すべき生命の空しさと人間的時間のはかない性格に一定の永続性と耐久性を与える」(21頁)と言われます。
活動は、物や事柄の介入なしに、直接人と人との間で行われる活動力で、多数性という人間の条件と関わっています。この多数性は、共通性と差異性を特徴とします。共通性がなければ、言葉での交流は不可能ですが、差異性がなければ、交流の必要はありません。そしてこれが、全政治生活の必要条件であるばかりか、最大の条件だと言われています。ローマ人の言葉では、「生きる」ということと「人びとの間にある」、「死ぬ」ということと「人びとの間にあることを止める」は同義語として使われていたそうです。この活動が政治体を創設し維持することが出来る限り、記憶の条件、歴史の条件を作り出します。
労働、仕事、活動は、世界への新参者が絶えず入ってくることを予定し、考慮に入れて、彼らのために世界を与え保持する課題を持っていて、出生と深くつながっています。特に活動は、誕生と深く関わります。誕生が意味を持つのは、(誕生に私たちは新しい始まりを感じ取りますがそれは)新参者が新しい事柄を始める能力、活動の能力を持っているからです。
そして人間の制度と法の脆さは、この出生と関わると言います。新しい力の世界への登場は、希望であると同時に脅威でもあります。それは活動の持つ無際限さからやって来て、活動の潜在能力を十分に経験していたギリシア人が戒めたのが、傲慢です。限界の中に留まるという中庸の徳は、それゆえ優れて政治的な徳と言われます。
人間の幸福は死によって完成します。しかし、人は死ぬために生まれてきたのではなく、始めるために生まれてきます。人間の世界は、単なる反復運動ではなく、活動による人間の奇跡的創造能力によって営まれます。その活動は言論と一体化していて、言行一致を約束するというのがその最たるものです。しかし言行一致は難しく、不測の事態や内心の裏切りなどで、人びとに幻滅を味わわせもします。結果、約束をしないほうが誠実ということにもなります。それでは社会生活は回りませんから、契約という法に根拠を持つ関係性が生まれたとも言えるでしょう。ともあれ活動は極端に走り危機を招きながらも、それを約束と許しの力によって、人びとが共生しようとする意志によって乗り越えてきたと、アーレントは言います。
「誕生」という概念は、旧約聖書の予言書イザヤ書第9章6節の「ひとりの嬰児われらのために生まれたり 我らはひとりの子をあたへられたり」と関わります。アウグスティヌス研究の中から、アーレントの誕生という概念は多くの示唆を与えられています。ただ、『人間の条件』第5章の最後に出てくる印象的なフレーズ「私たちのもとに子供が生まれた」は、ヘンデルのメサイア第11番に心を動かされたアーレントが、世界にたいする信仰と希望を語った簡潔な言葉として取り上げたようです。