宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

「理性」って?ちょっとカントから考えると

 理性的というと、感情的の反対と言ったらいいのでしょうか。筋道を立てて考える能力が「理性」というと分かり易いでしょう。いや、まだまだかな。

 西洋哲学では「理性」は重要なキーワードですが、私はこの言葉を説明しようとすると、「はて? なんと言ったらいいのか」と戸惑います。他の説明でも、よく学生から、具体的に分からないという感想をもらいます。それぞれの分野に特有の言葉があり、その中で回り始めると言葉が言葉を呼ぶ現象が起こります。一生懸命説明しても、門外漢にはちんぷんかんぷん。説明する側は、はて、これ以上どう言ったらいいのか?とこちらも立ち尽くしてしまう。これって何なのか。

 例えば、キャッシュカードにデビット機能を付けますかと聞かれ、私はそれって何?という状況でした。口座から即時決済されるカードとして使えますと言われましたが、どこでも使えるのか、現金を持ち歩かなくていいということにメリットがあるのか、クレジット決済も1回払いなら手数料取られないし、何が違うのかな、等々。ちんぷんかんぷん。

 現実に体験できるものは、やってみるとそれなりに納得します。使い方が分かるわけですが、よく考えるとそれって何?は残ったままです。日常生活の中で分かるとか納得するという場合、大体使い方が分かって、便利さが分かるとそれ以上考えません。でも哲学の言葉は、何の役に立つのか、その意義は何なのかよく分からない。その辺りに、哲学って難しい、苦手、面倒くさい、があるのでしょう。まあ、メリットが分からない、ということでしょうか。そもそも哲学にメリットってあるのでしょうか。

 石川文康さんは哲学とは「証明不可能な根本真理に対する人間の態度表明だと言っても過言ではない」(『カントはこう考えた』46頁)と言います。人間は生きていますが、「人間はなぜ生きるのか」というような問いは、人間を超越する存在(神)でも持ちださない限り、証明不可能です。絶不調に陥ってしまうと、ふっとこういう根本真理に疑問を持ちますが、それ以外はスルーしますよね。

 ところで「理性」という言葉について、例えばカントはこういうようなことを言います。

  「人間の理性はある種の認識において特殊な運命をになっている。すなわち、理性が退けることもできず、かといって答える事もできないような問いに煩わされるという運命である」(『純粋理性批判』第1版序文冒頭)

 西欧思想の中の「理性」という用語は、一般には見たり聞いたりする感覚的な能力に対し、概念(ものの本質を捉える言語表現)によって思惟する能力を意味します。そして、「理性的」とは、本能や衝動や感覚的欲求などに基づく行動に対し、義務ないし当為(なすべし)の意識によって決定される行為のことです。そういう行為を導く能力も理性に含めます。これはカントでは、実践理性と言われ、道徳的能力です。

 整理しておくと、理性には大きく二つの側面があります。一つは真と偽に関わるテーマを思惟する能力の側面、もう一つは善と悪に関わる道徳的能力の側面です。

 17世紀、哲学者たちの理性(RATIO)とはまず神のロゴスを意味し、ついでその神によって創造された自然を貫く理性的法則(摂理)であり、そして人間も神の似姿たる限りでその理性を分有するとされました。理性とは永遠の真理、絶対的真理の領域。ここまで来ると、ちんぷんかんぷんでしょうか。 

 理性は通常「真理」の最高決定機関ですが、理性が自己矛盾を起こすことがあります。それが、カントが理性批判を行ったきっかけでした。

 理性はあくまでも合理的認識能力で、与えられた物事に脈絡をつけ、物事を理解し、物事の合理性を読み取る能力です。ところが、それが昂じて理性は自分の能力だけで、与えられた物事を超えて、その背後や根拠にも合理性を求め、いっさいの物事の根本にどこまでもさかのぼろうとする傾向を持ちます。理性のこのような傾向が学問となったのが「形而上学」(物事の背後にある原理を追求する学問)です。

 理性は「絶対」「究極」「完全」と言った概念を生み出し、それゆえこれらは一般に性概理念と言われます。伝統的形而上学はそれらを反映して、「神」、「自由」、「魂の不死性」を代表的テーマとします。

 このような理念は経験界に直に見出されるものではなく、間接的に「推理」によって思い描かれるだけです。そこに理性が自己矛盾に陥る落とし穴があります。理性がアンチノミー(二律背反)に陥るテーマはすべて何等かの形で「絶対」とか「究極」に関わっています。

 カントのアンチノミーは4つありますが、その一つ目が世界に始まりがあるかないか、というものです。これは両方とも証明できてしまいます。

 定立:世界は空間・時間的に始まりを有する(有限である)。

    反立:世界は空間・時間的に無限である。

 証明の仕方は、どちらも「反対の不可能性」を証明するという回りくどいものです。究極の問いはそれ以外のやり方では証明できないようです。石川さんの例を引用させてもらうと、「僕は君を愛している」ということは、「もし愛していないなら、~なんかしたりはしない」という形でしか証明できない。そうでないと「愛しているから愛している」という同語反復にしかならない、と。

 というわけで、定立は「時間が無限であると想定すると、われわれは『現在』と言う完結した時点においてあることが不可能。ゆえに、これまで無限の時間が過ぎ去ったということはあり得ない。世界に時間的始まりがないという想定は不可能[反対の不可能性]。すなわち、世界は始まりを持つ[結論]」という風に証明します。

 反立は「時間が始まりを持つと想定すると、世界の始まりの前に物が存在していない時間があったことになる、すなわち空虚な時間があったことになる。しかし空虚な時間からは、およそ物が生起すると言う事は不可能である(無から有は生じないは西洋哲学の大原則)。[反対の不可能性]。ゆえに、世界の中ではものの多くの系列が始まりうるにせよ、しかし世界そのものは始まりをもたない。世界は時間的に無限である[結論]」となります。

 お疲れ様でした。両方とも証明されました。ともあれ、なぜこういうことが起こるかといえば、理性が自分の能力以上のことに挑戦するからだ、というのがカントの言おうとしたことです。そもそも時間も空間も実在するものではなく、主観の形式にすぎないと考えるなら、問題は解決します。時間・空間を実在と見る仮定に基づくからこういうことになるのだという訳です。もっともここで言う「主観」は、一人ひとり異なっているものではなく、「人間の」認識の条件としての「主観」、人間が何かを認識・経験するときの外せない眼鏡と考えて下さい。

 で、何?ってなりそうですが、まあ、理性って、理由や根拠に拘る能力のようだと捉えておきたいと思います。そして、私は「私の一年前はどこに行ったのか」(6日のブログ)と問いましたが、これもこの発想によると、時間は主観の形式、実在するものではないということになります。でも、別の切り口もあります。という辺りで終わりにします。

h-miya@concerto.plala.or.jp