宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

大洗の原子力機構事故から:知識は力?

 大洗・日本原子力研究開発機構の事故で、作業員5人が内部被ばくしました。そのうち50歳代の一人の肺から、22000ベクレルの放射性物質プルトニウム239が検出されたと発表されました。その後、36万ベクレルとも報道されています。プルトニウム239の半減期は2万4千年で、人体への影響の大きいアルファ線を放出します。外部からのアルファ線は皮膚で遮られますが、内部に入ってしまうと体内に長く滞留する可能性があり、大きな発がん性を持つことは以前から知られています。

 作業員が吸い込んだプルトニウムは0.01ミリグラムほどとみられます。22000ベクレルの被ばくを人体への影響度を表すシーベルトに換算すると、最初の1年間で1200ミリシーベルトになると換算されています。1999年のJCO臨界事故で亡くなった人が浴びた線量は、10000ミリシーベルトと測定されています。この時は外部被ばくでした。1000ミリシーベルトを超えると急性の放射線障害が出ますが、今回は一度に被ばくしたのではなく、じわじわと身体を傷つけていきます。機構の安全管理体制が改めて問われています。

 プルトニウムの毒性は、高木仁三郎さんが、1993年1月3日から5日まで科学技術庁(2001年廃止、業務は文部科学省などに継承)前で、一人で「脱プルトニウム宣言」のハンガーストライキを企画・実施して、訴えたものでもあります。「あかつき丸」がフランスから運んできたプルトニウム1.5トンは、1月5日に東海村に運び込まれました。

 「知識は力なり」はよく知られているように、フランシス・ベーコン(1561-1626)の言葉と言われています。正確には、ベーコンの述べていることを下敷きにした言葉ですが。彼の主著『ノヴム・オルガヌム』は、アリストテレスの『オルガノン(論理学)』を批判し、新しい論理学の方法を提唱したものです。演繹法を批判し、実験と観察に基づく科学的帰納法を主張し、近代科学の方法論を基礎づけたと言われます。

 『ノヴム・オルガヌム』のアフォリズム三に「人間の知識と力とは、一つに合一する」という文言があります。もう一か所、1597年の随想の中に「そしてそれゆえ、知識そのものが力である」(私は未確認)という部分があるようです。アフォリズム三は続けて、「原因を知らなくては結果を生ぜしめないから」となっています。ここで言われている対象は自然です。自然を征服するには、自然に従うしかないというコンテクストの中にはめ込まれます。

 ということで、この「知識は力なり」は技術、特にテクノロジーの神髄を表現しています。オルテガ・イ・ガセットは『大衆の反逆』の中で、「『専門主義』の野蛮性」ということを述べています。彼の言う大衆とは、「平均人」、特別でない人のことです。そして、現代の専門家を代表する科学者の一般化、「今日の科学者は結果的には大衆人の典型」(158頁)になっているという事態を語っています。科学を進歩させるために、科学者の専門家が必要とされ、科学者は狭い領域に閉じこもり、そのことをむしろ美徳と公言するに至った。気を付けておきたいのは、科学自体の専門化ではありません。科学が、全体から切り離された専門分化的なものなら、それはもはや真の科学ではなくなります。

 オルテガは言います。「実験科学の発展は、その大部分が驚くほど凡庸な人間、凡庸以下でさえある人間の働きによって進められた」(159-160)と。「専門家は知者ではない」が「無知な人間でもない」ことで、非常にまずい社会的影響力を発揮してしまっています。なぜなら「そうした人間は自分が知らないあらゆる問題についても、無知者として振舞わずに、自分の専門分野で知者である人がもつ、あの傲慢さで臨むことを意味しているからである」(161)と。

 科学技術の発展がもたらした現代の光と影。先端技術に関わることへの怖れを忘れてしまったとき、知識は力でなく、破壊力になると思います。

h-miya@concerto.plala.or.jp