「看護とは何か」という問いと、実際に看護の現場で看護師に要求される知識と技術との関係はどうなっているのか。これは、「教育とは何か」という問いと、学校教育の現場で教師に要求される知識と技術の関係はどうなっているのか、という問いに置き直して考えると分かり易いかもしれません。というのも、ナイチンゲールは次のように言っています。
「教育の仕事は別として、世の中で看護ほどに、その仕事において《自分が何を為しうるか》が、《自分がどのような人間であるか》にかかっている職は、ほかにはないからです」
教師とはどのような存在か。教育とはどのような営みか。例えば親は子どもを育てますから、それもまた教育と言えます。学校教育は、教育の中の一分野と言えます。しかし、公教育の普及以来、学校教育は教育の典型になっています。教師は、知識や技能の伝達者であると同時に、生き方においても規範を守る存在として、子ども(被教育者)の手本であると、一般には受け止められていると思います。
では看護師とはどういう意味で、何を為しうるかが自己のありようと結びついていると言われているのでしょうか。友だちとこんな話をしたことがあります。「人柄がいいけど下手な歯医者と、性格悪くても上手い歯医者でどっちを選ぶ?」。結果、二人とも後者だよね、という話になりました。
ということは、ナイチンゲールが示した看護師のあり様は、知識や技能を統合する存在のあり様を基本に置いたということになります。何のために?健康のあるべき姿を示すことで、人々に幸福を実現させようとしたから。うーん、でもやはり今一つピンときません。
そう言えば、ずいぶん前に名古屋市に住んでいたころ、看護学校で、教育学の授業を担当したことがありました。その時は、患者教育という目的のための教育学という括でした。しかし、看護と教育への、ナイチンゲールの言及を読んで、ベースにこれがあったのかもと今は思っています。