宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

政治の責任

 南スーダン国連平和維持活動(PKO)に派遣されている自衛隊の即時撤退を求める集会が、17日東京都千代田区の衆議員第一議員会館で開催された、と新聞報道されていました。

 昨年7月11日、12日の陸上自衛隊の日報は、昨年末時点では、破棄されたと言われていました。一転、2月7日、一部黒塗りで開示されました。日報には、ジュバでの当時の大規模衝突で270名以上の死者が出ていた状況が「戦闘」と記載されています。これに対し、稲田朋美防衛相は戦闘ではなく「武力衝突」であると答弁しています。

 17日の集会では、このような言い換えで切り抜けようとする政府への不信感が、あらわになりました。政府は、結局、国民に何も知らせようとしていないのではないか。まさに「由らしむべし知らしむべからず」(『論語』)。自衛隊員のお母さんで「平和子(たいらかずこ)」の名前で、南スーダンへの派遣に反対する活動をしている北海道の女性が、自衛隊派遣の即時撤廃を訴えました。

 このような言いかえは政権が多用しています。「共謀罪」は(一般市民は関係ないと言われていたのにどうも処罰対象に入っているような)「テロ等準備罪」、「安全保障関連法」は(戦争に巻き込まれる可能性は高くなっているのに)「平和安全法制」、昨年12月の沖縄県名護市沖でオスプレイが大破した事故を、翁長雄志知事が「墜落」と表現したら、それを「不時着」と主張。6日後に地元の反対を押し切って、オスプレイの飛行は再開されました。政治の責任とは何なのでしょう。

 現場の責任感が、事態を何とか最悪に至らせなかった事例を二つあげます。一つ目は2011年3月11日午後2時46分、「大津波警報が発令されました。高台に避難してください」という遠藤未希さん(24)の防災無線での呼びかけです。彼女は、宮城県南三陸町の町職員でした。30分後、職員に避難指示が出されましたが、津波後、屋上で確認された10人の中に遠藤さんの姿はありませんでした。町民約1万7700人の半数近くが避難して助かりましたが、彼女はその職責を全うする中で、命を落としました。9月に結婚の予定だったそうです。

 ひたちなか市も3.11の時には、被害を受けました。そして今なお、東海第2原発廃炉問題を解決できずにいます。3.11の時にも、津波(5.4メートル)があと70センチ高かったら、電源喪失の事態を迎えるところでした。ディーゼル発電機冷却水を送る水中ポンプ室を覆っている6.1メートルの壁は、震災1週間前に出来上がったばかり。しかも大きな壁の穴を埋めたのが3月9日。しかし、隙間から入った水で3台ある非常用発電機のうち1台が使えず、2台で凌ぎました。ただし力不足で、自動での操作がうまくゆかず、170回手動でコントロールしたそうです。

 上二つの事例は、現場の責任感が状況を最悪に至らせなかった例です。しかし、政治は、現場の職員たちが、命がけになる事態を出来るだけ減らす責任を持っているのではないでしょうか。政治家は政治の責任をどう考えているのか。どうも市民の生活を守ることを第一義には考えていないようです。「大きな視点で見て」と言われそうです。でも「神は細部に宿りたもう」。

 アビ・ワールブルクの言葉として知られています。出典は定かではありません。古代ヘブライ世界に由来するとか、中世哲学では有名だったとか言われています。細部に拘泥することを言っているのではなく、細部からこそ全体が見える、あるいは細部をないがしろにしないことで、真の全体が組み立てられるというような意味のようです。ミシェル・フーコーが『言葉と物』なかで、「神の視点では、どんな無限の広がりといえども一つの細部より大きいわけではない」と書いています。

 施設で火事の避難訓練がありました。その時に感じたのは、これでは何かあったとき逃げられない、ということでした。そして職員もまた、逃げられない、と。自然災害にももちろん備える必要がありますが、人為的な、避難を余儀なくされる状況は備える前に、改善できるものは改善すべきだと思っています。市民一人ひとりの生活の基盤を守ってこその政治ではないでしょうか。

h-miya@concerto.plala.or.jp