2016年も残り2日を切りました。今年は、体調を崩して半年以上思うに任せない状態が続きました。本当に中仕切りの時間だったなあと、一年を振り返って思っています。
2015年の3月に始まった私の中での変化を、今年は消化する時間だったのかもしれません。まだまだ消化しきれてはいませんが、体調が回復してきて、少しずつ行動に移してゆく段階になったのかも。
日々思うことを書き留めるという行為も、以前はやりませんでした。論文を書くことはあっても、日常の思いを文章にする作業はスルーしていたなあと思います。書くことで、書きながら考えています。頭で考えると言うより、手を動かすことで考えている、という感じでしょうか。
昨晩、沖縄の友だちから、地震見舞いのメールが届きました。「沖縄は大変ね」と返したら、「抵抗の歴史があるから大丈夫」と力強い返信。ベラルーシのアレクシエービッチさん(11月)が言っていた「抵抗の文化」を思い出しました。少なくとも、沖縄には形作られて来たのかもしれません。沖縄への共感、私の周辺でも聞かれます。私たちには自分に直接関わらないことへも、自ずと共感する力があります。
「いかに利己的であるように見えようと、人間の本性のなかには、他人の運命に関心をもち、他人の幸福をかけがえのないものにするいくつかの推進力が含まれている。人間がそれから受け取るものは、それを眺めることによって得られる喜びの他に何もない」(アダム・スミス『道徳感情論』冒頭)
哀れみや同情がこの類のもので、それらは想像力によってもたらされると、アダム・スミスは言っています。私たちはどうするか。沖縄に対しても、自分たちの問題に対しても。
学生グループ「シールズ」が解散しましたが、その解散メッセージも印象に残っています。「孤独に思考し、判断し、共に行動し、そして戦後百年を迎え、祝いの鐘を鳴らしましょう」(8月)。私としては、「孤独に思考し、そして議論し、判断し、共に行動し」と、議論を入れたいなあ。
ノーベル医学生理学賞を受賞した大隅良典さんの言葉もその通りだなあと思います。「役に立つという言葉が、とっても社会を駄目にしている。役に立つのは十年後、百年後かもしれない」(10月)。この言葉は、一人ひとりが役に立つ立たないという基準からでなく、人間として大切に扱われ、自分のことも人材評価だけに特化してはいけない、ということにつながっていると思います。
「汝の人格および他のすべての人格に宿る人間性を常に同時に目的として取扱い、けしてたんに手段としてのみ取扱わぬように行為せよ」(カント 定言命法第二方式)
有用な人材に人間が成りきってしまう前に、それぞれの場所で、小さくてもいいから、人間らしく生きる基盤づくりがふつふつと萌え出ますように!