宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

熟議的理性と一般意志

 感覚(センス)の客観性を書きましたが、数値化の意義を否定しているわけではありません。ただ数値化を過度に評価することには、気をつけたいということです。そして、理性というと、他の感情や感覚より優れている気になりますが、そうではないということもまず捉えておきたい。これは、哲学をやってきた自らに、むしろ言い聞かせる言葉です。

 ソクラテス以来、哲学においては「理性」が主流派でした。「人間は理性を有することでほかの動物より抜きんでている」という人間観があります。しかし、理性は人間に本来備わっている能力のことではありません。人間は理性的であり得る、というような意味合いです。

 哲学用語としての「理性」はラテン語のラチオ、ギリシア語ではロゴス。私たちに、よりなじみの言葉では、ものごとの「理(ことわり)」。「なぜ?」に対する「~だから」の部分。理由・根拠であり、それは言い訳でなく、ほかの人を納得させられるものです。それを示せれば、「理に適っている」ということになります。当然、状況や関係する人・ものによって、「理に適う」理由は複数あります。

 ところが、この理性的という言葉はどうも独り歩きして、感情や感覚、経験より価値があるように捉えられがちです。だから人間も理性的で自律していてこそ、人間であるという観点が出てきます。合理的人間観とはそういう傾向を持っています。アマルティア・センは『正義のアイデア』「第9章 不偏的理由の複数性」で「合理性rational」と「理に適うことreasonable」の違いを次のように述べています。

 「自分自身の精査に耐えられることが合理性の概念にとって中心的であるのに対し、他者の視点からの批判的精査を真剣に考慮することが、合理性を、他者との関係で理に適った行動に高めるうえで重要な役割を果たすことになる。ここには明らかに、政治的社会的倫理の要件が入りこむ余地がある」(294頁)

 ところで熟議的理性の熟議は、deliberationですが、この語は熟慮の意味もあります。熟議だと人々の間での話し合いになりますが、熟慮は一人で自分の中でできます。センのいう合理性(rational)は熟慮にあたり、理に適う(reasonable)は熟議に当たると捉えて良いと思います。

 さて、deliberationはじっくりゆっくり丁寧に考えることや話し合うことを意味します。なぜこういうことが必要かといえば、一人ひとりが異なっていて、その異なっている人間同士が共同しあってゆかなければならないからです。そのとき、理性の行使が必要になると考えられます。人間としての共通点を共同で見つけて、それを尊重しようとする営みに、理性が必要だということです。

 私たちは理にかなった理由を示されれば、「なるほど」と思います。たとえそれが自分の考え方とは異なっていても。その「なるほど」をお互いに積み重ねあって、共同体のルールを作ってゆく。これが一般意志を共同で探るということだそうです。ですから多数決で負けるとは、一般意志の見つけ方を間違えたということになるようです。ただしこの一般意志は分割不可能なので、ルソーは代表民主制を基本的に否定しています。

h-miya@concerto.plala.or.jp