宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

「うまく生きること」「よく生きること」

 「うまく生きること」と「よく生きること」は別ですが、両方ともに学びが関係しています。頭ではわかっているけどできないという段階をクリアしないといけません。これは、どういうことを言っているのでしょうか。倫理的問題(「よく生きる」)では主知主義者は、本当に分かっていないからと言うでしょう。古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、アクラシア(自制心のなさ)として扱っています。つまり欲望に負けてしまう意志の弱さ。

 もう一つは、身に付いていないことで身体が動かないので、頭では分かっているけどできない(「うまく生きる」技術)というのがあります。車の運転はその最たるもの。理屈では分かってもなかなかできないことの一つで、これは、繰り返し練習して身に付けるしかない。コミュニケーションの問題は、両方の分野に関わるかもしれません。

 アリストテレスは、技術も徳も訓練や習慣づけて身に付ける(現実化する)段階とそれを実際に行使する(現実化する)段階を分けていました。技術ではわかりやすいのですが、倫理的行為におけるこの習慣づけによって徳が身についている段階と徳の実践を分けて考えるというのは、「目から鱗」でした。たまたま善いことをするのと道徳的行為は別だということです。

 また経済学では合理的選択と実際の選択の差が問題になってきたようです。合理性をどう考えるのかも関係してきますが、私たちは本当に現実から学びながら、特に政治的社会的倫理の側面で、理にかなった行動をとろうと学習できているのかな、と私自身はかなり懐疑的になっています。

 現実生活に役に立つこと、得をすること、それを習得しようという努力は、勤勉と言われる私たち民族にはごく普通に見られるかもしれません。これ自体は素晴らしいことだと思います。まあ、やりすぎは問題を生みますが。ただ、どうも私たち民族だけでなく、道徳的行動は単に確立された慣習に従う形をとる傾向があるということを、アダム・スミスが指摘していたし、そもそもソクラテスのエレンコス(吟味・論駁の意)はここに踏み込んだものでした。ソクラテスはその結果、裁判にかけられ、毒杯を仰いで死ぬ羽目になりました。

 分かったことが実際の行動に反映されるのには、時間がかかるし、分かるということにも時間がかかります。そして欲得を超えて「何」をわかろうとするのかの見極めも難しいです。

 

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