宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

講座「VRで認知症体験」

 今日は一日☂。その雨の中、水戸市茨城県総合福祉会館で開催された「VRで認知症体験」講座に参加してきました。講師は株式会社シルバーウッドの社員の方で、まずシルバーウッドが経営しているサービス付き高齢者向け住宅「銀木犀」(首都圏に6カ所)について説明がありました。ここの駄菓子屋さんには子どもたちが集まって来て、なるほどと思うアイディアです。その後、ゴーグルを付けて、認知症の人たちの世界の見え方を体験しました。

 シルバーウッドはスチールフレーミング工法の会社だそうです。下河原忠道さんが代表取締役。建築職で高齢者向け住宅を受注する中で、高齢者向け住宅の需要を見込んで福祉の世界に進出を始めたようです。「銀木犀」の理念は「入居者の自主性を重んじる」ということ。今、この「銀木犀」が支持を集めているようです。

 なるほど異業種からの参入の斬新さを感じました。「銀木犀」の開放的でおしゃれな空間や、入居者が店長を務める駄菓子屋、認知症ケアのための斬新な企画など、自立支援と地域連携重視の新しい試みです。

 VR(バーチャル・リアリティ)による認知症体験では、レビー小体型認知症の人の見ている世界を体験できたのは良かったです。その他の視空間失認に関しては、以前から言われていることで、テレビでその見え方を放映していたのを見たことがあります。私自身は、見え方より、その心の在り様に関心があります。どういう心持なのかなぁと思うことが多々あるので。

 介護の世界を開放していく試みは面白いと思いました。

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                  2月26日 弘道館公園

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    鹿島神宮側から弘道館に臨む                 八卦

『君たちはどう生きるか』

 名古屋にいた頃からのお付き合いのご夫婦に、干しイモを送ったら、旦那様の方からお礼状と一緒に哲学カフェでのやり取りメモが送られてきました。Hさんとお呼びしたいと思いますが、彼は元新聞記者さん。メモは分かり易く、面白いものでした。

 哲学カフェで取り上げられたのが『君たちはどう生きるか』です。この漫画本がベストセラーになって、一時期本屋さんに平積みされていたそうです。研究会の帰りにお茶の水の古本屋街で探して見ましたが、ありませんでした。書泉グランデに漫画本と岩波文庫版、ポプラ社版などが置いてありました。

 Hさんは満州事変の年(1931年)に生まれ、旧制中学2年(14歳)のとき、敗戦になりました。本が出版されたのは、1937年(支那事変)です。元々山本有三が書く予定だったのが、眼を悪くして、吉野源三郎に回ってきたと、著者のあとがきに書かれていました。吉野源三郎は東京生まれで、東大の哲学科を卒業し、1937年に岩波書店に入社しています。戦後は『世界』の初代編集長をした人です。

 Hさんの話に戻ります。彼はこの本が出版されたころ、今でいうと小学1年生のころに、すでに軍国少年になっていたそうです。この本は言論統制が厳しくなっていく時代に、山本有三が少年少女たちを時代の偏狭な国粋主義や反動思想から守り、彼らに自由で豊かな文化があることを伝えたいと企画した『日本少国民文庫』全16巻の最後の配本でした。

 当日の哲学カフェの参加者は、彼以外は彼の子どもや孫の年齢だったそうです。漫画本を呼んで来た人から、「ナポレオンの評価」に違和感が出されました。「立派な人」と強調されていることに対してです。原本では、確かに彼の行為に対して「立派なこと、立派だわ」という表現が2か所ありますが、それ以外は「偉い、英雄的」が多用されています。そして上級生からにらまれている北見君への対応で、みんなで一緒に行ってそれでも殴ると上級性が言うなら、一緒に殴られようという浦川君の提案に、水谷君のお姉さんのかつ子さんが「偉いわ!」「それが英雄的精神よ」と応じています。コペル君の叔父さんが書いているコぺル君宛のメッセージノートには、ナポレオンに関して「非凡な」「偉人」「英雄」が多用されています。

 主人公のコペル君には「立派な人間」になって欲しいと叔父さんは願っています。ではその立派な人とはどういう人なのでしょうか。叔父さんは単純に非凡さや英雄性を言ってはいません。この後、コペル君は取り返しのつかないことをして悩みますが、その後悔の、人生に対して持つ意味が複線的に語られます。それは叔父さんのノートでは、パスカルの思索につながっています。

 立派な人とはどういう人なのか。この本の中では、社会的な生産関係の話にも触れられていて、単純な道徳訓ではありません。最後にコペル君は、「いい人間にならなければと思い始めた」と書いています。「立派な人間」と「いい人間」は同じなのでしょうか。これがカフェでは議論になったようです。これは同義語かどうか。結果は別だろうということで落ち着いたようですが、まだまだ議論は尽きないと、手紙のメモに書かれていました。

 本を持ってはいましたが、それも30年近く前に購入していましたが、ちゃんとは読んでいませんでした。読みやすい本で、時代背景を知ると、登場人物の動き方や考え方も納得が行きます。それと同時に、今でももちろん通用することが一杯書かれていて、分かり易い倫理の本だ思いました。そして確かに、哲学カフェで取り上げ易いものだなとも思います。何となく、お説教的な感じの本のように捉えて、敬遠していたかなと反省もしています。 

私たちの「不安感」の底にあるもの

 久しぶりに、研究会に参加しました。発表は二つで、ニーチェキルケゴールに関するものでした。少人数の集まりで、質疑応答の時間にはいろいろ意見交換ができて、楽しかったです。以前は、研究会はある種ノルマ的に捉えていて、新しい観点が発見できる場であり、緊張感や充実感はありましたが、楽しいという感じはありませんでした。

 ニーチェはもともと私の研究活動の出発点で、やはり、原点なのだなぁと、再確認。キルケゴールは、『死に至る病』取りあえず読みました的な門外漢ですが、彼の不安の概念をめぐる発表を聞いた帰り道、高速バスの中で、不安神経症のような病気との差はどこにあるんだろうと気になり始めました。キルケゴールは不安を罪との関係で考察していますが、原罪には、アダムの罪(楽園追放という人類の堕落の原因)、人類が生まれながらに備えている可能的罪(悪への傾向)、個人が生まれて初めて起こした第一の罪の三つがあります。第3のものによって、個々人は無垢から罪人へと変化します。

 森有正は『いかに生きるか』(講談社現代新書)の中で、罪の意識について述べています。明け方が一番良くない。忙しいと忘れているけれど、ちょっとでもゆとりがあり、ことに一晩休んで身体が休まって、疲れが取れたいちばん平衡が回復したときに、このような意識が目覚めてくると言います。だから、「罪というのは神経衰弱とか体が弱るからおこる、一種の神経症みたいなものではないのです」(181頁)と書いています。

 そしてこの罪の意識は、魂の安らぎを妨げているものであり、人間の魂に不安を与えるものだと言います。森有正のいう罪は、他の人格に対して私たちが持っている負い目や傷つけること破ることであり、これが私たちの魂を本当の苦悩に陥れると言います。

 身体や心が疲れすぎて不眠になり不安感が高まるというような状況は、睡眠導入剤精神安定剤抗不安薬(医師に処方してもらうこれらの薬は現在では依存性がかなり抑えられていると言われます)によって、寛解(全治ではないが症状が治まって薬の助けをそれほど必要としなくなっている)状態をもたらすことはできると思います。ただ、森有正が言うように、状態が良くなっているときに現れる罪の意識の不安からは、逃れることはできないのかもしれません。

 私たちの持っている根源的不安はどこから来ているのか。それがあるからこそ、不安神経症のようなものも起こってくるのかもしれません。

「みんなちがって、みんないい」は何を肯定しているのか?

 「放課後等デイサービスみときっず」を見学させてもらいました。午前中だったので学齢前の子どもさんしかいませんでしたが、障がいを持っている子どもたちの居場所の一つなのだと分かりました。 

 少し前から、「みんなちがって、みんないい」をどう捉えたらいいのか、ということを考えています。差異の肯定の言葉としてこのフレーズを受け取る、ということを前提にします。では、これはありのままの現状追認の言葉なのか。間違ったことをしていることも認めるのか。人間の社会は、その維持のためおきてを持っています。おきてには時代遅れになったものや、もともと矛盾したものがあります。おきての縛りがきつくなると、それを壊そう、超えようとする力が働きます。「みんなちがって、みんないい」には、時にそのような思いがかぶさります。画一化の圧力に押しつぶされそうになったとき、思わず出てくるうめき声のようにも聞こえます。

 「われわれ」の境界を絶えず広げていこうとするときにも、この言葉は響いてきます。でも、超越者はすべてを容認するのでしょうか。旧約の神は怒りの神でした。善悪の彼岸ではないのです。ニーチェの遊ぶ子どもとしての超人は、「みんなちがって、みんないい」の世界に生きているのかもしれません。ただし、存在者として劣悪なものは永遠回帰の中には入ってこない、とドゥルーズは解釈しています。存在そのものからふるいにかけられる。残るのは「みんなちがって、みんないい」もの。しかしそれは、人間の小さな理性のふるいにかけられて残ったものではありません。

 肯定される差異とはなんなのかが、問われる必要があります。違うこと自体がいいことなのかどうか、という問いです。他者性と差異性は同じものでないと、ハンナ・アレントは言っています。他者性のみの存在の最もわかりやすい例は結晶だと思います。有機的生命の場合は、他者性からくる多数性と同時に差異性が現れています。多数であること、違っているということは、存在することそのものです。ただし人間においてそれは唯一性となりますが、この唯一性は言論と活動を通して明らかにされ続けるものだと、アレントは言います。

 「みんなちがって、みんないい」は現状追認の言葉ではなく、それぞれが自らの唯一性を実践し表明し続ける中で、獲得され続けるものと言っているのではないでしょうか。違っていること自体がそのままいいことなのではなく、そのことをどのように周りに表明し続けるのか、周りからの承認を引き出すか、その努力の中で差異の真価が問われていくのではないでしょうか。

 

生け花と避難計画説明会

 今日は暖かでした。お花の集まりで、お雛様をアレンジした生け花を楽しみましたが、素材も器も同じでも、微妙に異なった作品が出来上がりました。

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        私の作品                    Hさんの作品

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        Yさんの作品                  Kさんの作品

 夕方、那珂湊コミュニティセンターで「原子力災害に備えたひたちなか市広域避難計画に係る基本方針について」、ひたちなか市市民生活部生活安全課主催の説明会に参加しました。しかし、行政の言葉は固いですね。正確を期するとこうなるのは仕方ないのでしょうが。

 私たちの小学校区はUPZ(緊急防護措置を準備する地域)に入っていて、まずは屋内退避が基本になる地域です。ひたちなか市では、約15万4千人がこの区域に属します。放射性物質放出後、私たちの小学校区の避難先は石岡市の石岡運動公園です。その逃げ方も指定されていましたが、水戸大洗ICから東水戸道路に乗って、常磐道に入り、避難退避時検査場所でチェックを受け、常磐道の石岡小美玉ICで降ります。まあ、ここまではかなりパニックになっていても辿り付ける気がします。

 でもその後、国道355号線に入って県道50号線から石岡運動公園まで行けるかどうか。石岡小美玉ICで降りてから、石岡市に避難するグループは5つくらいの行き先に分かれます。私は、おそらく前の車について行ってしまいそうです。

 今日の説明会は、30名超くらいでした。これをどうやって周知徹底させていくのか。市の考え方としては、まだ計画途上なので意見を聞きたいということでもあったようですが、練り上げれば練り上げるほど、説明を受ける側は分からなくなっていくでしょうね。まあ、そもそも、無理な計画であることはみんな分かっているのですが。

ひたちなか市役所那珂湊支所の新装オープン

 廃車証明書用の印鑑証明と軽自動車用の住民票が必要だったので、那珂湊支所に取りに行って来ました。新装オープンは聞いていましたが、きれいに明るくなっていました。1階フロアのオープンスペースで、お雛様の展示をしていました。

 確定申告の時期でもあるので、駐車場は一杯でした。窓口も結構ひっきりなしに市民がやって来ていて、職員の方たちの対応もテキパキしていて、気持ち良かったです。おずおずと「マイナンバーカードを作りたいのですが」、「この手続きはどうしたらいいのか分からなくて」等々の問合せをする人たち。

 こういう窓口の雰囲気って、それぞれの地域の口調やペースが作りだすんだなぁ。都会化するほど等質化し、無機質化していくようです。以前は、役所や図書館などの効率的で無機質な対応が好きでした。湊支所の窓口は、地域の人ののどかな生活を垣間見せてくれました。若い頃は、ちょっとイラッとしたものが、今はのどかな日々の生活として受け止められます。人間の感性は変わるものですね。

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一階フロアのオープンスペースに飾られていた           那珂湊支所入り口

寄付されたひな人形の一つ

ネットの評価

 軽自動車の中古を探して、幾つかお店を歩きました。結構疲れました。ガリバーには行っていませんが、ビッグモーターには行きました。店員さんの対応は良かったです。ただ、車の価格のつけ方や乗り出し価格の出し方はよく分かりませんでした。

 こういう大きな買い物のとき、見えない部分をどう判断するのかは難しいです。例えば、家を建てるとき、かつては知り合いの大工さんに頼みました。現代では、住宅メーカーに依頼するのが多いと思います。レオパレス21の一部アパートでの施工不良が問題になっています。一戸建ての家の施工不良も、一般の人間が見抜くのは難しいですが、マンションレベルになったら、まず不可能です。

 ビックモーターの評価もネットで思わずチェックしました。評価は悪くはなかったのですが、やはり、車についての知識不足を認識している者としては、店員さんの出してくれたかなりいい物件にも二の足を踏んでしまいました。

 大きな買い物のとき、信用というのを基準にしているなぁと思います。そしてコミュニティの中では、地元で商売をしているところについての口コミ情報は、日常的に入って来ます。全国展開の企業の場合、ネット情報がその役割を果たしているのでしょう。ただし、これはその情報を出す人のチェックが難しいので、かなりの数がないと判断基準に使えません。

 買い物だけでなく、クリニックを探すときにも、この評価を結構頼っています。あーあ、本当にネット社会なのだなぁと実感する、ここ数日でした。

h-miya@concerto.plala.or.jp