宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

観ること:知覚の客観性 1)

 ケアは観ること・観察から始まると思います。観察は看護においてナイチンゲールが重視したものでもあります。現象学も観察記述から始まります。では観察情報の客観性(人による偏りのなさ・安定性)をどう考えるか。観察情報の客観性は知覚の客観性に集約できませんが、知覚の客観性の問題としてまず考えてみたいと思います。

 知覚の中では、視覚が最も客観的なものだと思うので、視覚に絞って考えます。ものを見るとき、同じ場所に立つと、視力に問題がない場合は、ほぼ同じに見えていると言えます。ではどうしてそういうことが起きるのでしょうか。単純に考えれば、外のものを人間の知覚が捉えるから、と言えます。しかし、こういう「鏡としての」客観性は20世紀になると、問題視されるようになりました。

 意識が外界を厳密に移すという、「鏡としての」客観性が問題視されるようになったのは、ヴントを中心とした要素主義心理学に対するゲシュタルト心理学からの批判に始まります。要素主義心理学の恒常仮説とは、一定の局所的刺戟に対して常に一定の感覚が対応するというものですが、この恒常仮説への批判は、ヴェルトハイマーの「運動視に関する実験的研究」(1912年)によって始まりました。これは、光の刺激が連続的に与えられると、設定の仕方によって、点滅運動が一つのまとまった運動として知覚されるというものです。もし要素主義心理学の考え方が正しければ、点滅する光は点滅するものとして知覚されなければならないはずです。ゲシュタルト心理学における知覚の考え方は、その結果、「意識作用―意識内容―客体自体」という「三項図式」で捉えられるような意味での認識論的有効性を脅かすことになりました。

 認識論は一般に、要素的意識内容が主観の働きによって統覚され(まとめられ)、意識与件(意識データ)を形成するという統覚心理学的な発想に立脚してきました。すなわち、ゲシュタルト心理学によってこの3項図式が成立しなくなり、認識論の土台が切り崩されたわけです。

 では科学的認識に土台を提供できる知覚経験の安定性(客観性)をどう考えたらいいのでしょうか。生態心理学の領野を切り開いたジェームズ・ギブソンは、知覚的客観性の問題を不変項の実在によって解決できるとします。木の枝にとまっている鳥を私たちが鳥と認識するのは、鳥が独特の動き方をするからです。動き変化する鳥の形象の中に変わらないものを私たちは捉えることで、鳥の認知が可能になります。この変化の中で変わらないものを、不変項とギブソンは名づけ、それは環境世界に外在しているとしました。不変項とは、ケーラーが脳内に実在化したゲシュタルトを、外界に実在化させたものと言うこともできます。つまり、知覚の能動性は構成にあるのでなく、不変項を探索するところにある。知覚のレベルで客観性を考えるとき、この不変項の考え方は有力な見方を提示しています。ギブソンは私たちが変化の中に不変項を抽出することで、知覚がある安定性に達すると考えました。

 この不変項の考え方を取るなら、知覚の客観性は確保されると言えます。しかし、知覚が生態学的世界に限定され、そこにある不変項を抽出するだけで創造的側面を欠くなら、物理学的世界(物理学や数学の記述する世界)としての科学的世界はいかにして成立するのか。知覚の客観性は担保されても、知覚の客観性をベースに組み立てられる科学的世界という道は、成立しないことになります。

 生態学的実在レベルを知覚が越えてゆくことをどう捉えるか。その点では、メルロ=ポンティゲシュタルトをどう捉えているかを考察することが助けとなると思います。次回で、このメルロ=ポンティの知覚の客観性の考え方を捉えたいと思います。

 

ひたちなか市民大学:ネットワーク技術

 

 昨晩は、ひたちなか市民大学の開設講座「ネットワーク技術 中級・上級」の初日でした。テーマは「メールの仕組み(1)【電子メール】メールはどうやって届くのか」です。50名募集に89名が応募し、茨城工業高等専門学校側が大教室を提供してくれて、全員受け入れてもらえました。女性の受講者も多かったです。私より年配の女性が、最前列に座っていました。担当者は小飼敬先生。小飼さんは、高専助教で、ソフトウェア工学が専門です。自分のやっていることが好きだということが、説明や質問への応答によく出ていました。とても丁寧に応答してくれていました。

 初回の話では、電子メールの仕組みをメール送信とメール受信に分けて、わかりやすく解説してくれました。初めに、電子メールの画面が表示され、Cc(カーボンコピー)やBccブラインドカーボンコピー)欄の扱い方に質問が出ました。Bccで一斉配信したいとき宛先をどうするか? 自分のメル・アドを入れればいいそうです。Bccで受け取った人の画面はどうなっているのか? Bccで受け取った人の画面からもBcc欄は消えています。私も全員返信で返すと、Bccの人に届くかどうか疑問でしたが、それは届かないとのことでした。受信者のメールからは、Bcc欄のアドレスは消えています。Bccの人の場合も同様。自分のメル・アドが表示されていないことで、Bccであると了解するということです。届くのにメル・アドが消去されるというのは、どういう仕組みなのかなと思います。

 電子メールのやり取りで、全世界共通の取り決め(プロトコル)がTCP/IPです。このTCP/IPは、役割ごとにプロトコルが層に分かれています。今回の話にかかわるのは、アプリケーション層で、メールの送信にはSMTP(Simple Mail Transfer Protocol)というプロトコルが使われています。このプロトコルに従って、メールはメールサーバ間を転送されて、メールボックスに届きます。

 このSMTPでのやり取りの流れは、5つのコマンドを使います。私は、1985年頃にパソコンを使い始めましたが、その当時はMS-DOSでコマンドを書いていました。なんか思い出してしまいました。SMTPの部分は、TELNETをOnにすると見えるようです。小飼さんが実際に、コマンドを使ったメール送信のデモンストレーションをしてくれました。メールデータはヘッダと本文に分かれますが、ヘッダ部分が長いです。ただし、内容自体は簡単で、要は面倒くさい。

 パソコンのOSが現在使っているような簡単に起動できる形になる以前、パソコンは普及しないだろうと言われていました。それが今や、スマホを小学生も操れる時代になっています。その分、問題も出て来ています。原理を知らないままに、簡単にネットを使えることで、思わぬ犯罪に巻き込まれてしまいます。SMTPは簡単なので、悪意のメールを送り続けることもできますが、ただそれはReceivedの部分を覗くと、発信元コンピュータを特定できます。知っていれば対策を練れる訳です。

 メール受信に関してはPOPIMAPというプロトコルを使います。POPによる受信では、メールクライアント(メーラ)がメールを取得すると、メールサーバのメールボックスからメールは削除されます。IMAPによるメール受信では、サーバのメールボックスに保管されているメールが、メーラに同期されるので、メールはサーバのメールボックスに保管されます。

 受信したメールデータに注目してみると、いろいろな制約を解決するのにMIME(Multipurpose Internet Mail Extension)という規格を使っています。その制約とは、電子メールでは英数字といくつかの記号(ASCII文字)のみを扱うということです。日本語とか写真、バイナリデータ(パソコンが理解できる形のデータ。人間には文字として読めないデータ)を送るときに、ASCII文字との相互変換に使われるのが、MIMEです。これも写真を送るデモを見せてくれて、そのメールのソースをのぞかせてくれました。写真のMIMEによる変換部分には、厖大な訳の分からない文字がダ~と出てきました。

 メールの本文を私たちは読んでいますが、メールには見えないヘッダ部分があって、このヘッダに転送情報やMIMEなど普段表示されない情報がいっぱい書かれているということです。初回は、何とかクリアかな。次回は、「【フィルタリング】メールが届かないのはなぜ?」です。最終回まで、何とかついて行きたいなあ。

外の世界と内なるテーマと

 今日は台風3号が九州に上陸し、速いスピードで東進し、23時現在は関東の南海上を東に進んでいるようです。

 職場では1日に利用者さんの有志でじゃが芋ほりをしました。梅雨の晴れ間、少し暑かったのですが、今日のような台風がらみの天気でなくてよかったです。そして2日は東京都議選挙と藤井聡太4段の対局がありました。都議選は自民党の歴史的大敗。藤井4段は29連勝でストップしました。

 私自身は、ケアの倫理をめぐる論文を見直しています。ケアリングの危険性をどこから照射するか。ケアは同心円的に遂行されます。そこに判断が恣意的になる要因があるし、その自己投入がバーンナウトにつながる自己犠牲的関わり方を引き起こすとも言えます。俯瞰する目の欠如、等身大のみで判断・行為が遂行されること、およびそれが超越へのまなざしの欠如をも引き起こすとも言えます。この超越は永遠vs.不死という視点からも考えられます。

 ここ数日、外の世界はめまぐるしく動いていますが、その一方で私自身が問い続けているテーマがあり、それは繰り返しらせん状に離れては戻ってくる、と感じています。ケアリングの持つ陥穽に関しては、以前から考えていたことがまとまる軸が見えてきている感じですが、上からの目と水平の目と下からの目をどう表現していくか。ケア責任との向き合い方へのつながりの展開し方が、まだ弱い。自分の中で整理しきれていないです。

黄金のアデーレ 名画の帰還

 これは、ナチスに奪われたグスタフ・クリムトの名画「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ」を取り戻すために、オーストリア政府を相手に返還訴訟を起こした女性の実話をもとに作られた映画(2015年)です。アデーレの姪で、現在はアメリカに住む82歳のマリア・アルトマン(ヘレン・ミレン)が、亡くなった姉の意思を継いで新米弁護士のランディ・シェーンベルクライアン・レイノルズ)と組んで、法廷闘争を繰り広げ、2006年に絵を取り戻すまでの話です。そこに、マリアが両親を残してウィーンから、夫と命からがらアメリカへ亡命した20代の記憶が織り込まれ、ユダヤ人の辿った過酷な時代の痛みが蘇ってくる構成になっていました。

 ヘレン・ミレンが素晴らしかったです。こういう風に年をとりたいなあと思う女性を演じていました。ランディを巻き込んでゆくマリアの強引でかつチャーミングな性格と、最後まで闘うならランディとともに、という揺るがない信念。もちろん彼女は、途中でもう止めるとランディに宣言したりしますが、それでも最後はランディのためにと、ウィーンに行き、オーストリア政府と渡り合います。ナイス・バディムービーです。

 最初は名画の金銭的価値の高さに惹かれて法廷闘争に加わったランディでしたが、ウィーンに同行することで、マリアが過去の幸せな時代の家族の記憶とそれがナチスによって無残に打ち砕かれて行ったことに、そして両親をウィーンに置き去りにしてしまったことに、深く傷ついたままであることに気づかされます。

 そして、ランディの祖父にあたるアルノルト・シェーンベルクは、オーストリア生まれの作曲家で12音技法を創始したことで知られています。シェーンベルクは1934年にアメリカに帰化していますが、ランディの曾祖父母は強制収容所で亡くなっています。強制収容所記念碑に曾祖父母の名前を見付け、その名前を指でなぞっていたランディは、トイレの中で一人で壁を叩きながら、うなるように涙を流していました。ランディの中で何かが変わり、彼は金銭的価値からでなく、「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ」を取り戻すことで家族の思い出を取り戻したいというマリアのために動き始めます。

 マリア・アルトマンは最期までお店を続け、2011年に94歳で亡くなりました。絵を売却したお金は自分のためには大して使わなかったようです。

 実話の持つ力とヘレン・ミレンの魅力が光った映画でした。どういう関連か『フリーダム・ライターズ』を思い出しました。あの映画でも女性教師エリン・グルーウェル(ヒラリー・スワンク)が素敵でしたが、信念を持ち若い世代を育てる女性にある種の共通性を感じたのかもしれません。二人ともおしゃれで暖かく、そして男前です。

教えるということ

 教えるということを、高齢者ケアの現場で改めて考えています。教育では教育者と被教育者(以下学習者)の間に、教材があります。この教材にあたるものは、高齢者ケアの場合は何なのでしょうか。

 教師が教材研究を行うのは、もちろん教えるためですが、それは何のためか。学習者に力をつけるため、あるいは学習者の力を引き出すため、とまずは言っておきます。とすると「何を」教えるかと同時に「いかに」教えるかが重要になります。つまり、どのような力をつけるのかという大きな目標を、公教育として立てることができますが、具体的に何を使ってどのような手順でその目標を達成するかは、一つには決まりません。そこに教師の力量が発揮されます。もちろん検定を受けた教科書があり、公立の小中学校で使う教科書は、学校を設置した地方公共団体教育委員会が、検定に合格した教科書の中から選びます。私立や国立の場合、採択の権限は校長にあります。副読本等は現場が選択できます。とはいえ、教育振興会のものが幅を利かせているとか、採択の手順にも問題が指摘されてはいます。

 しかし教材はもっと広く考えられます。一人ひとりの学習者が、自分の力をつけてゆくための材料であり、教師はそれを絶えず探しています。大村はまさんはそういう教師でした。『教えるということ』(共文社)の中に、敗戦後の新制中学校での大村はまさんの体験が語られています。焼け野原の中、何もない中で始まった授業。初日、一クラスにまとめられた百人の子どもたちは、わんわん騒ぐだけで授業になりませんでした。次の日、はまさんは疎開先から持ってきた新聞や雑誌を使って、百人の子どもたち(学習者)に、百通りの教材を作って一つ一つ違った問題をつけて、やり方を教えていきました。教材を受け取った子どもたちは、「食いつくように勉強し始めた」というのです。みんながしーんとなって、床の上にうずくまったり、窓枠のところに寄り掛かったり、いろいろな格好で勉強しているのを見て、隣の部屋で一人で思いっきり泣いたそうです。

 彼女は言います。「子どもというものは『与えられた仕事が自分に合っていて、それをやることがわかれば、こんな姿になるんだな。』ということがわかりました」と。生きた教材を探す姿勢は、大村さんの教師人生を通して貫かれました。「いつも題材を拾おうと気にかけていて、教材を探してやまない、それは教育への熱意といったものの一つの表われなのではないかと思います」。いつどんな時も教師は、職業人の、専門職の目で見ることで、生活の中に生きた題材が探せるし、教科書の解釈にもその姿勢が反映される、それが教師の教師らしい熱意ではないか、と語られています。この姿勢は、よく分かります。特に、大学などでいわゆる教科書が指定されていない授業では、もちろん参考文献はたくさんありますが、それをどう提示するか、絶えず生きた教材探しをせざるを得ません。これは私だけの経験というより、他の先生たちと話していてもそういうことはよく聞きました。

 大村はまさんの「教師の仕事の成果」の部分、今はよく分かります。教師の仕事は、仏様の指のようなもので、学習者に気づかれないことにこそ本当の教師の成果がある。自分の努力で達成できたと思うことで、学習者は自信に満ちて勇ましく次の時代を背負っていけるのだと。そして生徒がいて教えることができたことが自分の生きがいだった、教師は次の社会に希望をつないで生きている種類の人間であり、子どもたちが自分の力だと信じ、教師のことなど忘れてくれれば本懐だと思うと結ばれていました。

 改めて、私は「教えてきた」のだろうかと振り返っています。教えることと教え込む(挿入式教育)こととを混同して、自分で見付けさせることに拘りすぎてこなかったか。学生が自分で歩みだす(考え始める)きっかけをもっと工夫できたのではないか、等々。

 高齢者のケアにおいては、一人ひとりの主体的生活の支援ということが言われます。それは生きがいをもって、毎日の生活を送れる手助けということなのでしょう。となると、子どもとは異なり、長い人生経験を持つ人たちの場合、何によって生きがいを持つのかには一人ひとりの個別性が大きいとも言えます。何を提供するのかは、まずは一人ひとりの「物語」に耳を傾けることからしか始まらないのかもしれません。教師は、どうしても教材を自分で探してしまいます。

 私がテーマとしてきた「ケア」は、教育のみならず介護や看護においてはベースになっているものです。看護も基本、健康を目指すという目標があり、未来志向だと思います。では、介護は?介護もまた、人生のソフトランディングに付き合って、最後まで希望を語るものだとも思います。その希望の言葉を、「私たちは最期まであなたと共にいます」というように清水哲郎さんは書いていました。この希望の言葉と、どう向き合ってゆくのか。教育の現場での未来へ向けて教えるという姿勢とは別なのか。それは、私にはまだ分かりません。 

自衛隊明記の危うさ:九条方式は越えられるのか

 東京新聞5月21日の総合(2頁)に、憲法学者石川健治・東大法学部教授のインタビュー記事が載っています。自衛隊明記の危なさを、統治機構の論点から整理しています。統治機構は3層をなしていて、1層目は「権限はあるか」、2層目は「権限に正統性はあるか」、3層目は「財政の統制はあるか」だそうです。
 九条によって本来軍隊を組織する権限は国会から奪われています。しかし1層目は自衛力という論理で突破されてしまった。その結果が自衛隊です。しかし、2層目、3層目は現在なお機能しているというのです。2層目の正統性の弱点が、自衛隊を暴走させないで、身を慎む姿勢を維持させ国民の支持を得ている。3層目の財政統制に関しては、2層目の存在を背景として、大蔵省・財務省が杓子定規に軍拡予算の編成を阻んできた、と言うのです。
 この2層目、3層目を突破させたら、暴走が始まると言っています。現段階では、九条方式に匹敵する優秀な軍事力統制メニューは出されていないと。これは私もその通りだと思います。井上達夫さんの言うようなシビリアン・コントロールの明記は、私も必要だろうと思います。ただし、国民に一斉に問いかけてもおそらく上手く行かないと思います。軍事力統制のメニューは議論される必要がありますが、市井のカフェ議論と同時に、中枢を担うメンバーによる討議が必要だと思います。
 NGOアタック(ATTACK)がかつて、国境を超える投機マネーを押さえるためにトービン税の導入を求める行動をしていったときのやり方のような。トービン税ノーベル経済学賞受賞者ジェームズ・トービン博士の考案したものですが、ATTACKはそれを現実に導入するやり方を、各界のエリートの参加を得て考案していきました。
 軍事力統制メニューを護憲・改憲派が合同で議論してゆく場を構成する必要があるのではないでしょうか。理想実現のための現実を見据えた論理構成ができる集団が必要だと思います。九条方式を超えるものが、あるいは九条方式に匹敵する現実的メニューが出せるのかどうか。出せなければ出せないでいいのだと思います。それで九条方式の素晴らしさを再確認できますから。現代の英知では九条方式は越えられないと言うことを、きちんと論じることが重要なのだと思います。
 J・S・ミルが『自由論』(岩波文庫)の中で、次のように言っています。
「その意見がいかに真理であろうとも、もしもそれが充分に、また頻繁に、且つ大胆不敵に論議されないならば、それは生きている真理としてではなく、死せる独断として抱懐されるであろう」(『自由論』第二章 73頁)
 ミルはきちんと議論されないと自分の意見の根拠を学び知ることができず、正しい信念を持つことができないと言います。どの様な信念であれ、ごく普通の反対論に対して弁護することが出来なければいけない。そして議論を完全に排除することなど不可能です。数学の論証ならいざ知らず、意見の相違を生じるあらゆるテーマに関しては、「真理は、相矛盾する二組の理由をあれこれ考えあわせてみることによって定まるのである」(75頁)「その問題に関して自分の主張を知るにすぎない人は、その問題に関してほとんど知らないのである」(76頁)と言われています。
 忙しいという理由や面倒という理由で議論することや考えることを止めてしまうとき、それこそが暴走への加担の始まりなのかもしれません。自戒を込めて。

決められる国会?

 今日は晴天で、それほど暑くなく、気持ちのいい一日でした。昨日と今日の新聞をまとめて読みました。昨日の宮子あずささんの「本音のコラム」では、共謀罪の問題が扱われていました。

 「共謀罪」の議論は、「社会の安全か人権か」の単純な二者択一ではないと、多くの人が感覚的に分かっているのではないかと書かれていました。そうだと思います。どちらも大切であり、その上でリスク評価の問題になります。「社会の安全が脅かされるリスク」と「人権が侵されるリスク」のトレード・オフの問題なのだと。政府は「人権が侵されるリスク」を最後まで認めませんでした。海外からのプライバシー権侵害への対応がなされていないという懸念表明にも、感情的としか思えないレスポンスでした。

 今日の特集の中で、元CIA職員エドワード・スノーデン氏の証言(共同通信社が報じたインタビュー)が、取り上げられています。米国国家安全保障局(NSA)が、極秘の情報監視システムを「日本側に供与していた」というものです。これはエクスキースコアと呼ばれるもので、メールや通話の内容、SNSの利用履歴などの情報を大量に収集するシステムで、ターゲットになったら私たちの「私生活の完璧な記録を作ることができる」と言われます。普通の市民生活を送る自分には関係ないと思いたいですが、でも基準が分からないので、結局は何もやらないのが一番になりかねません。自分が何もやらなくても、関係性の中で自分が知らない間に監視の対象、なんてこともあります。

 民進党逢坂誠二衆院議員は、2日、エクスキースコア供与の有無を問う質問主意書を政府に提出しましたが、13日に閣議決定した答弁書は「真偽不明の文書等に基づいた質問にはお答えすることは差し控えたい」というものだったようです。まあ、そういう答弁になるでしょうね。

 特定秘密保護法も安全保障関連法も、そして今回の「共謀罪」法も、米国がらみだとは多くの人が感じていると思います。宮子あずささんのコラムに戻りますが、「決められない国会」批判が今の国会につながっているが、これって私たちが望んだものなのだろうか、というような問いかけで結ばれていました。

 決められればいいわけではなく、どのように決めるかのプロセスの重要性があります。さらに決めた内容の是非の問題も。今回の一連の国会運営は、そのどちらにも問題が山積みでした。共同通信社が17、18日に実施した世論調査で、安倍内閣の支持率は前回調査から10.5ポイント下がって、44.9%になりました。国会は、数の力で押し切られる場であってはならないと思います。国の方向を決めるための議論の場であり、少数派政党にもその背後に多くの国民がいます。国会は、きちんと議論を闘わせることで、立場の違いを超えて落としどころを互いに探り合っていく場であって欲しいし、「日本の」国会として内外から見られていることを忘れて欲しくないと思います。

h-miya@concerto.plala.or.jp