宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

教えるということ

 教えるということを、高齢者ケアの現場で改めて考えています。教育では教育者と被教育者(以下学習者)の間に、教材があります。この教材にあたるものは、高齢者ケアの場合は何なのでしょうか。

 教師が教材研究を行うのは、もちろん教えるためですが、それは何のためか。学習者に力をつけるため、あるいは学習者の力を引き出すため、とまずは言っておきます。とすると「何を」教えるかと同時に「いかに」教えるかが重要になります。つまり、どのような力をつけるのかという大きな目標を、公教育として立てることができますが、具体的に何を使ってどのような手順でその目標を達成するかは、一つには決まりません。そこに教師の力量が発揮されます。もちろん検定を受けた教科書があり、公立の小中学校で使う教科書は、学校を設置した地方公共団体教育委員会が、検定に合格した教科書の中から選びます。私立や国立の場合、採択の権限は校長にあります。副読本等は現場が選択できます。とはいえ、教育振興会のものが幅を利かせているとか、採択の手順にも問題が指摘されてはいます。

 しかし教材はもっと広く考えられます。一人ひとりの学習者が、自分の力をつけてゆくための材料であり、教師はそれを絶えず探しています。大村はまさんはそういう教師でした。『教えるということ』(共文社)の中に、敗戦後の新制中学校での大村はまさんの体験が語られています。焼け野原の中、何もない中で始まった授業。初日、一クラスにまとめられた百人の子どもたちは、わんわん騒ぐだけで授業になりませんでした。次の日、はまさんは疎開先から持ってきた新聞や雑誌を使って、百人の子どもたち(学習者)に、百通りの教材を作って一つ一つ違った問題をつけて、やり方を教えていきました。教材を受け取った子どもたちは、「食いつくように勉強し始めた」というのです。みんながしーんとなって、床の上にうずくまったり、窓枠のところに寄り掛かったり、いろいろな格好で勉強しているのを見て、隣の部屋で一人で思いっきり泣いたそうです。

 彼女は言います。「子どもというものは『与えられた仕事が自分に合っていて、それをやることがわかれば、こんな姿になるんだな。』ということがわかりました」と。生きた教材を探す姿勢は、大村さんの教師人生を通して貫かれました。「いつも題材を拾おうと気にかけていて、教材を探してやまない、それは教育への熱意といったものの一つの表われなのではないかと思います」。いつどんな時も教師は、職業人の、専門職の目で見ることで、生活の中に生きた題材が探せるし、教科書の解釈にもその姿勢が反映される、それが教師の教師らしい熱意ではないか、と語られています。この姿勢は、よく分かります。特に、大学などでいわゆる教科書が指定されていない授業では、もちろん参考文献はたくさんありますが、それをどう提示するか、絶えず生きた教材探しをせざるを得ません。これは私だけの経験というより、他の先生たちと話していてもそういうことはよく聞きました。

 大村はまさんの「教師の仕事の成果」の部分、今はよく分かります。教師の仕事は、仏様の指のようなもので、学習者に気づかれないことにこそ本当の教師の成果がある。自分の努力で達成できたと思うことで、学習者は自信に満ちて勇ましく次の時代を背負っていけるのだと。そして生徒がいて教えることができたことが自分の生きがいだった、教師は次の社会に希望をつないで生きている種類の人間であり、子どもたちが自分の力だと信じ、教師のことなど忘れてくれれば本懐だと思うと結ばれていました。

 改めて、私は「教えてきた」のだろうかと振り返っています。教えることと教え込む(挿入式教育)こととを混同して、自分で見付けさせることに拘りすぎてこなかったか。学生が自分で歩みだす(考え始める)きっかけをもっと工夫できたのではないか、等々。

 高齢者のケアにおいては、一人ひとりの主体的生活の支援ということが言われます。それは生きがいをもって、毎日の生活を送れる手助けということなのでしょう。となると、子どもとは異なり、長い人生経験を持つ人たちの場合、何によって生きがいを持つのかには一人ひとりの個別性が大きいとも言えます。何を提供するのかは、まずは一人ひとりの「物語」に耳を傾けることからしか始まらないのかもしれません。教師は、どうしても教材を自分で探してしまいます。

 私がテーマとしてきた「ケア」は、教育のみならず介護や看護においてはベースになっているものです。看護も基本、健康を目指すという目標があり、未来志向だと思います。では、介護は?介護もまた、人生のソフトランディングに付き合って、最後まで希望を語るものだとも思います。その希望の言葉を、「私たちは最期まであなたと共にいます」というように清水哲郎さんは書いていました。この希望の言葉と、どう向き合ってゆくのか。教育の現場での未来へ向けて教えるという姿勢とは別なのか。それは、私にはまだ分かりません。 

h-miya@concerto.plala.or.jp