宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

お正月にちょっと年中行事を考えました

 明けましておめでとうございます

 年末から晴れた日が続いています。晴れた日は気分がいいですね。昨日までかかってやっと年賀状出し終わりました。この時期になると、年賀状書きには何時も追われています。でもご無沙汰ばかりの方たちとは、唯一、近況をやり取りできるときでもあり。

 暮れに会った知りあいと、何となく年の暮れという感じがしないという話になりました。クリスマスの時の方が、賑わう感じですね、と。以前は、お正月を迎えるために色々やることがいっぱいありました。餅つき、大掃除、門松たて、お節の準備等々。私の家では門松をたてることはありませんでしたが、餅つきはやっていました。今は、スーパーで買って来ます。

 宮本常一の『ふるさとの生活』(講談社学術文庫)の正月の項には次のように書かれています。

「正月は新しい年を迎えるときであり、‥‥‥門松をたて、おもちをつき、一日から三日ぐらいまで休み『大正月』といいます。それから七日の七草に休み、十一日に休み、十四日から十六日までを『小正月』といって休んでいます。二十日は『二十日正月』といい、休む日がいくつもあるのです」

 休みのオンパレードです。大小には公私の意味があって、小正月は民間の正月という意味だろうということ。お上の決めた正月が先にあって、はあり得ないだろうから、民間の正月が昔からあったところへ、お上が決めた正月が行われるようになったのだろう、と。

 なるほど、だからお墓も15日にお花をあげるんだと納得しました。12月30日にお正月のお花を上げてなんでまた15日に上げるのかな、と思っていました。元々は、小正月が先だったと言われると、12月30日のお花が後から加わったから、15日の花は止めるわけにいかないんだ、と。

 お正月の「ぞうに」は、いろいろのものを混ぜて煮たという意味で、神さまにそなえたいろいろなおさがりを煮たものだそうです。ですから、むしろ元旦より、大晦日の夜の神迎えや神祭りの慎み深い行事の方が大切だった。ただ神を迎える行事は一般に物静かなものなので、次第に忘れられ、正月の朝の方が本当の祭りのように思えてきた、と言われています。

 私たちは大晦日は紅白か裏番組で盛り上がり、初日の出を拝み、お雑煮で祝って、初詣という感じになってます。それさえもかなり、多様化してますが。良いか悪いか分かりませんが、年中行事といわれていたものが変わって来ているのは事実です。ちょっと寂しいかな。でも年中行事は忙しいと面倒という部分もあり。でも、でも、ふっと息を抜いて、生活を味わう時間にもなります。

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福島から一人で釣りに来たという女性がいました始めて一年くらいだそうですが、行動力に脱帽。

2016年を振り返って

 2016年も残り2日を切りました。今年は、体調を崩して半年以上思うに任せない状態が続きました。本当に中仕切りの時間だったなあと、一年を振り返って思っています。

 2015年の3月に始まった私の中での変化を、今年は消化する時間だったのかもしれません。まだまだ消化しきれてはいませんが、体調が回復してきて、少しずつ行動に移してゆく段階になったのかも。

 日々思うことを書き留めるという行為も、以前はやりませんでした。論文を書くことはあっても、日常の思いを文章にする作業はスルーしていたなあと思います。書くことで、書きながら考えています。頭で考えると言うより、手を動かすことで考えている、という感じでしょうか。

 昨晩、沖縄の友だちから、地震見舞いのメールが届きました。「沖縄は大変ね」と返したら、「抵抗の歴史があるから大丈夫」と力強い返信。ベラルーシのアレクシエービッチさん(11月)が言っていた「抵抗の文化」を思い出しました。少なくとも、沖縄には形作られて来たのかもしれません。沖縄への共感、私の周辺でも聞かれます。私たちには自分に直接関わらないことへも、自ずと共感する力があります。

「いかに利己的であるように見えようと、人間の本性のなかには、他人の運命に関心をもち、他人の幸福をかけがえのないものにするいくつかの推進力が含まれている。人間がそれから受け取るものは、それを眺めることによって得られる喜びの他に何もない」(アダム・スミス道徳感情論』冒頭)

 哀れみや同情がこの類のもので、それらは想像力によってもたらされると、アダム・スミスは言っています。私たちはどうするか。沖縄に対しても、自分たちの問題に対しても。

 学生グループ「シールズ」が解散しましたが、その解散メッセージも印象に残っています。「孤独に思考し、判断し、共に行動し、そして戦後百年を迎え、祝いの鐘を鳴らしましょう」(8月)。私としては、「孤独に思考し、そして議論し判断し、共に行動し」と、議論を入れたいなあ。

 ノーベル医学生理学賞を受賞した大隅良典さんの言葉もその通りだなあと思います。「役に立つという言葉が、とっても社会を駄目にしている。役に立つのは十年後、百年後かもしれない」(10月)。この言葉は、一人ひとりが役に立つ立たないという基準からでなく、人間として大切に扱われ、自分のことも人材評価だけに特化してはいけない、ということにつながっていると思います。

「汝の人格および他のすべての人格に宿る人間性を常に同時に目的として取扱い、けしてたんに手段としてのみ取扱わぬように行為せよ」(カント 定言命法第二方式)

 有用な人材に人間が成りきってしまう前に、それぞれの場所で、小さくてもいいから、人間らしく生きる基盤づくりがふつふつと萌え出ますように!

熟議的理性と一般意志

 感覚(センス)の客観性を書きましたが、数値化の意義を否定しているわけではありません。ただ数値化を過度に評価することには、気をつけたいということです。そして、理性というと、他の感情や感覚より優れている気になりますが、そうではないということもまず捉えておきたい。これは、哲学をやってきた自らに、むしろ言い聞かせる言葉です。

 ソクラテス以来、哲学においては「理性」が主流派でした。「人間は理性を有することでほかの動物より抜きんでている」という人間観があります。しかし、理性は人間に本来備わっている能力のことではありません。人間は理性的であり得る、というような意味合いです。

 哲学用語としての「理性」はラテン語のラチオ、ギリシア語ではロゴス。私たちに、よりなじみの言葉では、ものごとの「理(ことわり)」。「なぜ?」に対する「~だから」の部分。理由・根拠であり、それは言い訳でなく、ほかの人を納得させられるものです。それを示せれば、「理に適っている」ということになります。当然、状況や関係する人・ものによって、「理に適う」理由は複数あります。

 ところが、この理性的という言葉はどうも独り歩きして、感情や感覚、経験より価値があるように捉えられがちです。だから人間も理性的で自律していてこそ、人間であるという観点が出てきます。合理的人間観とはそういう傾向を持っています。アマルティア・センは『正義のアイデア』「第9章 不偏的理由の複数性」で「合理性rational」と「理に適うことreasonable」の違いを次のように述べています。

 「自分自身の精査に耐えられることが合理性の概念にとって中心的であるのに対し、他者の視点からの批判的精査を真剣に考慮することが、合理性を、他者との関係で理に適った行動に高めるうえで重要な役割を果たすことになる。ここには明らかに、政治的社会的倫理の要件が入りこむ余地がある」(294頁)

 ところで熟議的理性の熟議は、deliberationですが、この語は熟慮の意味もあります。熟議だと人々の間での話し合いになりますが、熟慮は一人で自分の中でできます。センのいう合理性(rational)は熟慮にあたり、理に適う(reasonable)は熟議に当たると捉えて良いと思います。

 さて、deliberationはじっくりゆっくり丁寧に考えることや話し合うことを意味します。なぜこういうことが必要かといえば、一人ひとりが異なっていて、その異なっている人間同士が共同しあってゆかなければならないからです。そのとき、理性の行使が必要になると考えられます。人間としての共通点を共同で見つけて、それを尊重しようとする営みに、理性が必要だということです。

 私たちは理にかなった理由を示されれば、「なるほど」と思います。たとえそれが自分の考え方とは異なっていても。その「なるほど」をお互いに積み重ねあって、共同体のルールを作ってゆく。これが一般意志を共同で探るということだそうです。ですから多数決で負けるとは、一般意志の見つけ方を間違えたということになるようです。ただしこの一般意志は分割不可能なので、ルソーは代表民主制を基本的に否定しています。

センス(感覚)の客観性:多様であることは評価不可能を意味しない

 27日、お正月のお花の活けこみが終わりました。なかなか豪華な作品が出来上がって、3人とも大満足です。花材は同じ、ただ枝ぶりなどは微妙に異なります。花器も形は同じで、色が違うだけ。それでも出来上がった作品は、雰囲気が異なります。これはいつも、面白いなあと思います。

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  Hさんの作品          Yさんの作品           私の作品

 写真ではあまり伝わってこないのですが、生で見ると、パッと見た印象がやはり異なります。これが個別性なのかなあ。そしてそれを直してくれる先生の感覚がうまく合致すると、「そうこれこれ」という完成品になります。3人3様に直してもらえるのも、すごいなあと思います。

 感覚は人それぞれとよく言われますが、でも感覚はかなり客観的なのではとも思います。センスの良さ、というのはやはり共通して感じ取られます。

 数学の客観性はある意味わかりやすいし、数量化すると共通のベースを獲得した感じになります。「なんか蒸し暑いわね」でなくて「32度、湿度80%」と言われると、状況が客観的に共有されたという気になります。でも本当のところどうなのでしょうね。蒸し暑さを表現する力は、数値化することでスルーされがちになっているのかも。蒸し暑さを短歌や俳句で表現可能だし、共有も可能ですよね。あるいは、落語や音楽やダンスで。センスは、意外なほどに数値でなくても共有されるのでは、ということは客観性を持っていて、ただそれが数量化とは異なるということです。

 3人3様の生け花には、それを活ける人の人となりがそれとなく滲み出ています。そしてそれを直してくれる先生の感性は、納得させる力を持っています。センスの良さとセンスの多数性は両立します。そしてそれは、かなりの程度評価可能です。多数性が単純に相対性を意味しないこと、多数性は単純に「評価不可能な何でもあり」ではないことを、センスの客観性のあり方が示しています。

日常生活動作(ADL):生活のシャドウ・ベース

  24日、介護職初任者研修の最終試験が終わりました。落とすための試験ではないと言うことで、素直に解答していても、まあ、大丈夫かな、記入欄を間違っていなければと思っています。今週半ばまでには結果が分かります。一緒のクラスで頑張り屋さんだったKさんは、心配症で、落ちたときの連絡が来る℡番号、自分の携帯番号を申請していたかどうか、事務方に確認してました。「大丈夫よ」と彼女に言いながら、心配は移るなあと思っています。書き間違えていたら、見直しはしたけど、と心配になってきます。

 8月27日からほぼ4か月、土曜一日コースでした。これまでは初任者研修修了者は、介護福祉士の試験に現場経験3年で挑戦できました。来年からは上乗せで実務者研修450時間が必要になります。その際、初任者研修修了に費やした130時間をカウントできるそうです。ということは残り320時間研修を受ければいいことになります。

 初任者研修を受けて感じたことは、日常生活を送り続けるのは、当たり前でなく、生まれてすぐに始まる文化的訓練が身に付いていたからだ、ということです。その複雑さは、繰り返しの中で「自然」になるほどに刷り込まれ、その「当たり前」を前提に私たちの日常の様々な活動が可能になっています。食べて、排泄して、眠って、のサイクルが上手く行っていないと、仕事も趣味も思うようにはできません。

 でも食べること一つとっても、分解するとなんて複雑なのだろうと思いました。食べたいという欲求、視覚や臭覚を通して食べ物に準備態勢が出来、口の中に食べ物を入れ、噛んで飲み込む、というこの一連のほとんど無意識にやっている行為が、分解されて、それぞれ上手くできない症状が示されたとき、😱ひえーと思いました。どっちの足から歩くか、どっちの手を振るかを意識すると上手く歩けなくなるような感覚、と言ったらいいでしょうか。

 マズローの欲求5段階説というのがあります。その第1段階は生理的欲求です。食欲、排泄欲、睡眠欲というようなものですが、これはADL(日常生活動作 Activities of Daily Living)が上手く行かなくなると自分で満たせなくなります。ADLとは、食事や歩行や入浴、排泄、衣服の脱ぎ着などを言います。この第1段階でつまずくと、第2段階以降の欲求を満たすことが難しくなります。

 介護はこのADLに困難を抱えてしまった人をフォローすることで、第2段階以降を自分なりに構築する手助けをすることを目指しています。それが「ADLからQOL(生活の質)へ」というよく用いられる表現です。つまり介護は、ADLやIADL(手段的日常生活動作)を高める手助けが最終目的ではなく、その人らしく生活すること、生活自体の質を高めることが目指すべきものだと言うことです。

 私の中で、「介護はただただ大変」というだけのイメージが変わりつつあります。

 下の写真は、私の趣味の生け花の作品です。ごくごく普通に気分転換の楽しみ、当たり前と思ってましたが、そうじゃないんですよね。家事労働はシャドウ・ワークと言われますが、日常生活動作は生きることのシャドウ・ベース、それも甚大な基盤、だと思います。

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     クリスマスのお花          ガーベラ・のいばら・りんどう・クロトン

64%多数決ルール

 22日に「憲法の集い」実行委員会があり、座談的に憲法改正の話が出ました。改憲にあたって、いきなり自民党草案が前面には出てこないにしても、自民党草案にもっと一般の人たちが関心を持つ必要があると思います。

 人数が多くなるほど、多数決が正しい判断を担保する可能性は高くなる、という陪審定理について、前回書きました。ただし立法の多数決に関しては、問題は簡単ではありません。そもそも多数決は、サイクルという構造的難点を抱えていると言われます。これについてはまた別に書きたいと思います。

 改憲問題に関して、改正条項である96条をもっと厳しくする必要がある、という『多数決を疑う』で坂井豊貴さんが披歴する見解に、私自身は納得するものがあります。現在の改正条項では、衆参両院の総議員数3分の2以上の賛成で発議でき、国民投票では過半数で可決されます。重要な法改正の多数決は本来満場一致が望ましいですが、それでは厳しすぎる。しかし、2択の過半数では、潜在的他の選択肢との比較関係の中でサイクルが生じてしまう。それを防ぐには、可決が63.2%を超せばいい、これを64%ルールというそうです。

 2014年12月の衆議院選挙で、自民党は全国の投票者のうち約48%の支持で、約76%の議席を取りました。小選挙区制はこういうことが起き易くなっています。ということは少なくとも衆議院の3分の2以上の議席は、過半数以下の有権者によって与えられています。そして、参議院選挙もかなり小選挙区制寄りになってきていると言われます。憲法96条は、実質的に、多数決の過半数をとれば改憲が可能になるように変質させられていると言ってよいようです。

 そこで、多数決の持つサイクルという構造的難点をクリアするには、64%ルールにのっとり、改憲国民投票でも3分の2以上の賛成を必要とする、とすべきだとの坂井さんの意見になるほどと思っています。

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         12月の水戸駅北口          水戸の街(南町3丁目から県庁方面を望む) 

多数決はなぜ正しいか?:陪審定理

 民主主義と多数決は切っても切れない関係にあります。しかしそれゆえの危険性もあって、プラトンは衆愚制と切り捨てます。ギリシア的社会構成の立場からは、民主主義は認められないようです。理性が強い人と気概に富む人と欲望に駆られる人という3区分を、プラトンは国家を構成する人々の間に設けています。みんな同じではないのです。この発想はプラトンの独創というより、ギリシア的コモン・センスがベースにあると言っていい。

 時代は下って、「最大多数の最大幸福」を掲げる功利主義が形成された18世紀後半から19世紀にかけて、功利主義者J・S・ミルは、少数者が切り捨てられる危険性に警告を発しています。功利主義では、一人は一人としてだけ数えられます。庶民も貴族も一人は一人という考え方です。数の論理が出てきます。

 では多数決は正しいのでしょうか。「最大多数の最大幸福」を掲げれば、確かに多数決で物事を決めることを根拠づけられます。しかし、幸福であることと正しいことは必ずしも一致しません。アリストテレス的に発想すれば、最高善と幸福は一致しますが、欲望の充足も幸福と考えると、最高善からは遠のきます。それはまた、なぜ少数派は多数派の意見を受け入れるべきなのか、という問いをも呼びます。その正当性はどこにあるのか。

 数の論理の正当化をどう考えるのかをめぐって、坂井豊貴『多数決を疑う 社会的選択理論とは何か』(岩波新書)では、「それは多数派が見付けた一般意志の判断に従うこと」であって、「多数派の意志に従うことではない」と言われています。一般意志とは、ルソーの『社会契約論』の思想です。一般意志は個々人が自分の利益をひとまずわきに置いて、自分を含む多様な人間がともに必要なものは何かを探ろうとすることだと言われます。ジョン・ロールズの「無知のヴェール」の発想もこれです。そして、ここで使われるのが熟議的理性です。一般意志と熟議的理性の部分はまた改めて書きたいと思います。

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         バラと浅草の雷門 別に関係はありません。ちょっと一休み。

 数の論理の正当化に話を戻します。陪審制での多数決はどんな考えに基づいて正当化できるのでしょうか。ここでは、コイントスで決めるより、理性に基づいたほうがより良いはず、という前提があります。

 例えばある一人の陪審員が、理性に基づいて判断したときの正しさの確率を、1よりは小さいが、0.5よりは大きいとして、いま仮に0.6とします。そして、陪審員を3人に想定すると、その判断が正しい確率はどうなるか。8つの場合分けができて、確率は0.648になります。陪審員の数を増やしていくと、多数決の結果の正しい確率は大きくなります。7人で0.7を超し、101人だと0.97を超します。

 どういうことか。一人で判断して正しいのはその人が正しくなければだめです。3人なら、2人が正しければ多数決の結果は正しくなります。7人なら4人が正しければよく、101人なら51人だけ正しければ、多数決の結果は正しくなります。判断する人数が大きくなるほど、全体の判断結果が正しくなるハードルは下がります。多数決では正しい判断をするものが、半数を超えさえすれば結果は正しくなりますから。

 つまり正しい判断をする者が過半数になる確率は、陪審員の人数が増えるにつれて100%近くまで上昇するということです。これを陪審定理というそうです。もちろん、各自が理性を働かせ、独自に判断するという条件がある場合です。この陪審定理の数学的一般化は、多くなされているとか。理性的判断がコイントスより正しくなる確率が高いという前提と、判断する人の独立性が保たれれば、なるほど多数決による判断の正当化は言えるなあ、と納得。ただし、これは、「理性的判断の正しさ」の妥当性が言えて、人の意見に左右されない環境づくりが成功すれば、ですが。

h-miya@concerto.plala.or.jp