宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

家事労働の社会化

 17日(土)、初任者研修の実技試験が終わりました。クラスの6名全員合格できました。みんなドキドキでしたが、終わってみれば、あっけなかった。今までやってきたことが、身に付いているかどうかの確認テストでした。介護の社会化をどうしてゆくのか、これからの課題です。

 家事労働という言葉があります。これは一歩家庭に入ったモノ・商品が本当に消費されるまでに使われる労力のことです。ご飯を炊いて、お茶椀によそって、並べる。野菜を洗って、刻み、煮炊き、炒めて、皿によそってテーブルに出す。衣・食・住・育児・介護、その他生活全般に関わる無視し得ない労働全般を指します。この家事労働は、「シャドウ・ワーク(隠れた、見えない労働)」と言われます。家が生産の場でなくなって、生産と交換の場から切り離されたところ(家庭内)で行われる労働で、考慮しなくてもよい労働とみなされてきたからです。そしてこの家事労働は、主に女性が担ってきたし、今もそう言っていいと思います。

 「家事」という領域が形成されたのは、産業革命が進展し、男性が労働者として労働市場への参入が促進された19世紀になってからです。家に残った女性が、主婦として家事に従事するようになりました。それまでは、家の事柄全般の責任者は、その家の主人でした。自給自足が基本であった時代から、商品化が進み、さらにお風呂の水くみやまき割が無くなって、女性でもできる、むしろ女性がやったほうがよいものに家事が全般的に変質し、専業主婦化が都市部で最も浸透したのが1975年ころです。

 その後、働く主婦が増えてゆきます。ただし日本の場合、女性が働く割合は欧米諸国と比べてそれほどの変化はありません。1970年から90年にかけて、アメリカでは女性労働力率は48.9%から56.5%(スウェーデンでは、59.4%から82.6%)に増加していますが、日本では、49.9%から50.1%に変化しただけです。それまでも、家業を手伝って働く女性は多かったのです。特に農業では、女性は重要な労働力であり、日本の産業構造の中で農業従事者は、1950年初め頃、50%を超えていました。ただし、女性の働き方は大きく変わりました。家業を手伝うのでなく、被雇用者として働く形態は増えました。1970年には54.7%の女性が被雇用者として働いていましたが、1990年には74%に増えています。雇用総数の中に占める女性の割合が急増した点では、他の先進国と共通しています。

 家業を手伝っているときは、家事も一緒にやりやすかったとも言えますが、仕事の場が家庭から離れると、特に育児や介護は困難になります。家事に関わって、お総菜やお掃除などの商品化を私的セクターでの社会化といいます。公的セクターでの社会化もあり、これは保育や介護、教育などの社会的意義の大きいものへの公的サービス化(保育園や学校教育、介護保険制度など)のことです。第3セクター方式の社会化には、単純に利潤を追求しない相互扶助型などのニューワークタイプが入ります。時間調整型社会化には育児休暇や介護休暇があります。

 家事労働の公的セクターでの社会化には税金が使われますが、負担の限界も問題になっています。その意味で、ニューワークタイプの社会化や時間調整型社会化がもっと必要になってゆくのだと思います。

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リースを作りました。少し歪んでますが。   珈琲自家焙煎のお店 都夢でちょっと一息

ミュージック・ケア

 ミュージック・ケアは日本語だと、音楽療法になります。リトミックと何が違うのか。リトミックをやったことがないので、体験的比較はできませんが、リトミックというとトモエ学園が思い浮かびます。トットちゃん(黒柳徹子さん)が出た学校として有名になりましたが、日本で初めてリトミック教育を取り入れた学校です。トモエ学園は、1937年に創設され、1978年に歴史を閉じました。トモエ学園の創設者は小林宗作で、「リトミックによる創造教育」を実践しました。

 リトミックは、19世紀末から20世紀にかけて、スイスの音楽教育家で作曲家でもあったダルクローズが生み出した音楽教育の手法です。身体と音を結びつけたリズム中心の訓練で、楽譜を読む基礎訓練ソルフェージュと対をなす音楽教育の基礎訓練と言われます。リトミックは、身体全体で音楽を味わうことから音楽を創造するという、教育的側面が強いのかもしれません。

 ケアとは何か。世話とか配慮、とまあ捉えていいかと思います。介護・看護・教育の分野では、ケアリングはそれぞれの本質に関わっています。ミルトン・メイヤロフは『ケアの本質』の序の部分で、「一人の人格をケアするとは、最も深い意味で、その人が成長すること、自己実現することをたすけることである」と述べます。そして、人だけでなく、観念や理想や共同社会をケアすることにも共通性があるとも言います。ケアとは一つの過程であり、関与の在り方であり、成長するものだとも。

 ミュージック・ケアは、年齢や身体状況に関わりなく、誰に対しても、心身に心地好い刺激を与えることで、人間関係や当人の心身状態に好循環を生み出すことを、目指しているようです。音楽を使って情緒の改善・安定を図り、運動感覚や知的機能の発達の援助をする。音楽といえば、古代ギリシアでも基礎教養として学ばれました。ピタゴラスプラトンも重視しています。どういう意味づけをされていたのか。そのあたりにも、興味が沸いてきました。

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音楽に合わせて色とりどりの布を振る     音楽と一緒に大きな布にボールや鈴を乗せて動かす

         (「子育てサロン かしの木クラブ」で)

介護過程

 初任者研修も最後の部分、介護過程に入りました。ここは、ケアプランと関わるところで、「根拠のある介護」を理解する要のような部分です。ただ、初任者研修が終わって現場に入ったレベルで、いきなり立てさせられるようなものではありません。ケア・マネジャーが立てたケアプランを現場で実践するときに、アセスメントから始まって、個別介護計画を立て、支援を実施し、評価して改善点を洗い出し、アセスメントに戻るというような循環する過程です。

 事例を使ってやってみて、なんとなくわかったことは、介護保険の基本的考え方のようなものです。前向きに、生活状態を改善する目標を立て、それへの援助をしていきます。目標は自立支援であり、できるだけ介護保険を使わない状態へ導くこと。それと、介護はグループで実施しますから、利用者に対する支援方針ややり方の統一性が要求されます。基本誰がやっても、同じような効果を出せる。その統一性は、客観的分析から導き出されなければならない。

 なるほどと思います。ただ一人ひとり異なる生活の支援です。根本にある自立を尊重し、一人ひとりが最後まで人間として大切にされる日常生活を支えるという理念は客観的であっても、利用者も介護者も人間であって機械ではありません。出会いの中の心の交流がどんなものになるかは、様々な色を持っています。以前に書いた、稲葉峯雄さんの老人介護に向き合う姿からは、客観的なまなざしと同時にそれ以上に、出会いの感動が伝わってきます。これは何なのだろうと思います。問いがまた蘇ってきました。

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    桜川の土手の遊歩道            水戸駅南口 5時を過ぎるとこんな風景です

 

 

ニーチェとニヒリズム

 ニーチェの『権力への意志』は、なぜニーチェ解釈のゆがみに寄与したのか。『ツァラトゥストラ』は、19世紀からの解放の書として、第1次世界大戦中に戦地に赴く若者たちを勇気づけました。ドイツ的高貴さvs.フランス・イギリスの浅薄な文明というような図式で。これにはトーマス・マンの『非政治的人間の考察』(1918年)の影響も大きいと言われます。ただ『権力への意志』が果たした役割は、今ひとつピンときません。『権力への意志』には副題として「すべての価値の価値転換の試み」がつけられています。そして冒頭はニヒリズムで始まり、最後がディオニュソス永遠回帰です。

 ニヒリズムという言葉が、哲学的に初めて使われたのは、D・イェーニッシュのカント論(1796年)においてではないかと言われます。イェーニッシュはニヒリズムを叱り言葉として使っています。当時のニヒリズムという語の使い方も、キリスト教教会に楯突く者や権威を否定し反抗するものへの叱責の言葉だったようです。日本語の訳では「虚無主義」ですが、虚無とは何物もなく、むなしいことです。しかしニヒリズムは楯突く者、反抗する者への叱責言葉ですから、どうも少し意味合いが異なります。この辺りは、ニーチェの解釈では受動的ニヒリズムと能動的ニヒリズムの違いになってきます。ニーチェ自身は自分をどう規定していたのか。

 ニーチェニヒリズムという語を使いだしたのは、1881年秋頃と思われます。この頃から1885年夏頃までのニヒリズムへの言及は、社会現象としての、当時の暴力に訴える破壊行動を指しています(能動的ニヒリズム)。1886年春以降、ニヒリズムへのまとまった叙述が見られます。この時期に「ニヒリズムが戸口に立っている」で始まる断章がかかれています。ここでニヒリズムの原因が、キリスト教道徳の解釈のうちに潜んでいると言われます。キリスト教道徳によって培われた誠実さの感覚が、キリスト教的世界解釈に嘔吐感を抱くようになったというわけです。『権力への意志』では、序言に続く「第1書 ヨーロッパのニヒリズム 計画」の部分に置かれています。

 「1887年6月10日レンツァー・ハイデにて」(KGWⅧ5〔71〕)で、ニヒリズム永遠回帰と結びつけて語られています。つまり、ニヒリズムのもっとも極端な形としての「無が永遠に」は、呪いとして感じるであろうと。ここで能動的ニヒリズムと受動的ニヒリズムが語られます。

 そして1887年秋ごろに至って、徹底的なニヒリズムが語られるようになります。ニーチェは自らを徹底的なニヒリストとして、受動的ニヒリストとも能動的ニヒリストとも区別しています。この時代に書かれた部分が『権力への意志』では初っ端(序言)に来ています。彼が自分をニヒリスト、それも徹底的なニヒリストとして規定したのはこの時期だけです。いろんなニヒリストがいるけど、自分は徹底的なニヒリストで、彼らとは別だと言っているわけです。

 従来の価値を否定すればいいわけでなく、それにも流儀があるというのが、ニーチェが言いたかったことなのかなと思います。ただ『権力への意志』の並べ方では、従来の価値を否定することが超人につながり、価値転換に至ると読めるのかもしれません。価値転換も何でもいいわけではないのですが。この辺りごちゃごちゃしているので、時代を追わない並べ方は、余計何が何だか分からなくなります。私の頭も、『権力への意志』についてもう一度整理してみなければ、と思います。

f:id:miyauchi135:20161214204957j:plain       f:id:miyauchi135:20161214205040j:plain   千波湖夕景(12月14日)              千波湖(12月14日)空と湖面が同じ色に            

 

福島からの避難者交流会と従姉妹会

 4日・5日と行事が詰まっていました。4日10時から、勝田ワークプラザで福島からの避難者の交流会(「未来への風 いちから」主催)がありました。エステとリースづくり、ハーブティでリラックスしてもらい、避難している人同士、そしてボランティアで参加してくれている人とも交流してもらうという企画でした。

 ハーブティをお願いしていた方の都合が悪くなったので、私が急きょ、ハーブティを担当しました。自分でもハーブを作り始めていて、生ハーブティを楽しんでいたので、お願いしていた方や生活の木の店員さんにも教えていただき、皆さんに提供しました。評判良かったです。

 避難者同士、本当はもっと交流したいそうですが、なかなか広がらない。というのもお互い、どこに誰がいるのか情報がないようです。個人的に市役所で聞いても、個人情報保護法の関係で教えてもらえないとか。社協登録団体のこのような活動は、貴重なんだと思いました。

 夜は大洗の鴎松亭で従姉妹会のお泊り宴会でした。夜も朝もしっかりとおいしいものを頂き、従姉妹同士いろいろ話は尽きませんでした。

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   夕食の前菜           夕食のあんこう鍋            朝食

 5日は干物屋さんやかねふくのめんたいパーク大洗、アウトレットに行ってきました。めんたいパークは、いつも通り過ぎるだけで入ったことがありませんでした。明太子とは、スケトウダラ朝鮮語で明太(ミンタイ)と呼ぶことに由来し、明太子という表現は日本独自のもの。明太子とはスケトウダラの子の意味で、本来はたらこ、明卵を示す言葉だそうです。明治期の日本統治時代の朝鮮で、日本向けに明太卵の商品化をして販売した樋口伊都羽(いずは)から始まり、下関で作られたまぶし型、そして漬け込み型辛子明太子を開発した川原俊夫など、明太子の歴史も面白いなあと思いました。

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   めんたいパークの店内              明太ソフトやジャンボおにぎり売り場

常陸太田の道の駅で

 12月1日、常陸大宮へ行く用事があり、常陸太田周りで帰って来ました。国道349号線に出たら、ちょうど道の駅があり、寄って来ました。新しい常陸太田道の駅です。雨模様で、お店は空いていましたが、お昼だったので新そばを食べました。おいしかったです。食べ終わる頃から飲食スペースが込み始めました。道の駅全体の印象としては、きれいですが、インパクトがない。常陸大宮の「道の駅みわ★北斗星」に行ったときの感激に比べると、特徴がないなあ、きれいだけど、という感じでした。北斗星の満てんトイレにはびっくりしたし、野菜売り場の昔の八百屋さんを思わせる雰囲気にもワクワクしました。常陸太田の道の駅は、おすましさんというイメージ。

 好みの多様化に合わせているのでしょうが、私はもっとドキドキさせてくれるものを期待してしまいます。道の駅のコンセプトって何なのでしょう。道の駅の発想は、1990年の「中国・地域づくり交流会」の広島での合宿から生まれたと言われます。山口県阿東町にある船方牧場の坂本多旦(かずあき)社長の発言「道にも駅があっていい」から始まったそうです。坂本さんは国土交通省観光庁の観光カリスマに選ばれていて、「農業経営を基礎とした観光交流空間の創出のカリスマ」と言われています。

 道の駅には三つのコンセプトがあります。一つ目は、休憩場所。二つ目は情報提供の場、そして三つめは地域交流・連携の場です。坂本さんの発想の元々は、道にはトイレがない、鉄道のような駅がないから、じゃあ道にも駅があればいいということのようです。確かに確かに、困りますよね。まあ、今だと、車運転していてトイレに行きたくなると、コンビニを探しますが。

 道の駅は各自治体と道路管理者が連携して設置し、国土交通省により登録された道路施設です。2016年10月7日現在で、全国に1107カ所登録されています。制度的に正式登録された「第1号」は、1993年4月22日の全国103カ所施設です。正式化前に社会実験(高速道路無料化実験のようなものかな)として12か所あり、実験前の施設でも「道の駅」の発祥とされるものもあります。

 道の駅みわは、1995年1月30日に登録されています。道の駅としては早い段階での着手で、それだけインパクトも大きかったと思います。私が始めて行ったのは、2005年頃だったと思いますが、「おもしろい!」と感激したのを覚えています。結構はやっていました。今は、いろいろなところに出来ていて、新鮮味は薄れましたが、筑西の道の駅も活気がありました。常陸太田の道の駅にも、季節が変わったら、また行ってみようと思います。

 

抵抗という文化

 ベラルーシノーベル文学賞作家でジャーナリストのスベトラーナ・アレクシエービッチさんが、23日に来日した。彼女は福島県を視察後、28日東京外語大学名誉博士号を授与された。彼女は講演後、学生との対話に臨んだ。

 上は、29日の新聞記事の要旨です。読んでいて印象に残ったのは、全体主義の長い文化があった旧ソ連と同様に、日本にも「人々が団結する形での『抵抗』という文化がない」と感じたという指摘でした。もちろん(祖母を亡くし、国を提訴した女性のような)例外はありますが、それが「何千件もあれば人々に対する国の態度も変わったかもしれません」と。要は抵抗現象はあっても、それが当たり前になっていない、例外になってしまうということ。文化になっていないわけです。

 スーザン・ヘックマンはローカル・レジスタンス(「ローカルな抵抗」と訳したらいいのでしょうか)としての自己形成を語ります。ヘックマンはフーコーの次のような主張「自己は私たちに与えられていない、自ら創造しなければならない」に則り、私たちは自分自身を形成する道徳的責任があるという結論に至ります。そしてこの自己を創造する自由な主体は、抵抗の主体でもあるとします。

 私たちは主体的とか主体性をプラス評価します。では、その主体はどう捉えられているか。恐らく、物事をよくわきまえて、感覚的・感情的でなく行動できる存在の在りよう、という感じでしょうか。これをデカルト的主体と取りあえず言っておきます。そしてこのデカルト的主体にとって、知識は権力から自由になるための手段です。デカルト的主体とは自律した存在であり、それはカントの自己立法的(自分で自分の守るべき規範を立てる)主体でもあります。これは西洋近代が理想とした「主体」の考え方でしたし、日本が明治維新以降輸入し、第二次世界大戦後に浸透した主体的自己の考え方だったと言えます。

 しかしフーコーは、知識と権力の浸潤関係を暴き出し、西洋近代の主体(subject)とは自ら従う存在としてのサブジェクト(臣下・臣民)だと指摘しました。ですから、自己創造する自由な主体とは、抵抗の主体になります。至る所にある権力は、当然支配への抵抗-自由―を生み出すからです。そしてこの抵抗する主体は、抑圧されている側に生じるのであり、主流でなくローカルです。それゆえ、自己創造する自由な主体とは、ローカル・レジスタンスとしての主体ということになります。

 日本だけの問題ではありませんが、日本の文化の中には、こういう抵抗する文化はなかったのでしょうか。

 

 

h-miya@concerto.plala.or.jp