宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

抵抗という文化

 ベラルーシノーベル文学賞作家でジャーナリストのスベトラーナ・アレクシエービッチさんが、23日に来日した。彼女は福島県を視察後、28日東京外語大学名誉博士号を授与された。彼女は講演後、学生との対話に臨んだ。

 上は、29日の新聞記事の要旨です。読んでいて印象に残ったのは、全体主義の長い文化があった旧ソ連と同様に、日本にも「人々が団結する形での『抵抗』という文化がない」と感じたという指摘でした。もちろん(祖母を亡くし、国を提訴した女性のような)例外はありますが、それが「何千件もあれば人々に対する国の態度も変わったかもしれません」と。要は抵抗現象はあっても、それが当たり前になっていない、例外になってしまうということ。文化になっていないわけです。

 スーザン・ヘックマンはローカル・レジスタンス(「ローカルな抵抗」と訳したらいいのでしょうか)としての自己形成を語ります。ヘックマンはフーコーの次のような主張「自己は私たちに与えられていない、自ら創造しなければならない」に則り、私たちは自分自身を形成する道徳的責任があるという結論に至ります。そしてこの自己を創造する自由な主体は、抵抗の主体でもあるとします。

 私たちは主体的とか主体性をプラス評価します。では、その主体はどう捉えられているか。恐らく、物事をよくわきまえて、感覚的・感情的でなく行動できる存在の在りよう、という感じでしょうか。これをデカルト的主体と取りあえず言っておきます。そしてこのデカルト的主体にとって、知識は権力から自由になるための手段です。デカルト的主体とは自律した存在であり、それはカントの自己立法的(自分で自分の守るべき規範を立てる)主体でもあります。これは西洋近代が理想とした「主体」の考え方でしたし、日本が明治維新以降輸入し、第二次世界大戦後に浸透した主体的自己の考え方だったと言えます。

 しかしフーコーは、知識と権力の浸潤関係を暴き出し、西洋近代の主体(subject)とは自ら従う存在としてのサブジェクト(臣下・臣民)だと指摘しました。ですから、自己創造する自由な主体とは、抵抗の主体になります。至る所にある権力は、当然支配への抵抗-自由―を生み出すからです。そしてこの抵抗する主体は、抑圧されている側に生じるのであり、主流でなくローカルです。それゆえ、自己創造する自由な主体とは、ローカル・レジスタンスとしての主体ということになります。

 日本だけの問題ではありませんが、日本の文化の中には、こういう抵抗する文化はなかったのでしょうか。

 

 

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