宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

国家とは何か

 トランプ大統領が、2月28日夜(日本時間3月1日午前)、連邦議会の上下両院合同会議で、初めての施政方針演説を行いました。「私の仕事は世界を代弁することではなく、米国を代表することだ」と述べたようです。

 日本の予算委員会では、森友学園に大阪豊中市の国有地が格安で売却された問題が紛糾しています。安倍首相夫人昭恵さんのこの学園への関与も問題視されています。開校予定の小学校の名誉校長を引き受けていた(問題発覚後辞任)こと、同学園系列の幼稚園(園児に戦前の「教育勅語」を暗唱させるなど)の教育方針に賛同していたことも、取りざたされています。

 国家とは何なのか。ふるさと共同体とは別のものです。ふるさと共同体は自生的性格を根強く持ち、自然に感情的な忠誠心が育てられます。国家は操作的社会的単位であって、教育などを通じて、人為的に愛国心などの忠誠心を培うことになります。社会的単位としての国家の消滅は、それ自体では必ずしも個人や家族の生存に脅威をもたらすものではありません。ソビエト連邦は崩壊しましたが、そこに生活していた人々やその文化が消滅したわけではありません。

 ですから、社会的単位としての国家はそれを形成し、維持してゆくためのいろいろな仕掛けが必要になります。1890年(明治23)10月30日に発布された「教育勅語」もそういう仕掛けの一つです。教育勅語自体は幼稚園児が理解できるような内容ではなく、いわゆる「読書百遍意自ずから通ず」的教育方法です。論語の学び方ですよね。でも、言葉がそういう風にして入っていくのは、とても重要です。まずは暗唱する。内容がその時すぐに分からなくても、吟味される必要があります。

 「教育勅語」は、明治政府が国民の思想統制のために作りました。日本という国は天照大神から歴代の天皇によって作られ、そこに教育の根源があるとまず言われます。次に徳育の14の項目が並べられます。親孝行し、兄弟仲良くして、国の法律を守り、国が危うくなったら命がけで、天皇の世を助けなければならない、と説いています。最後にこれらは歴代天皇の遺訓であって、普遍性妥当性があると結ばれています。

 この「勅語」は神聖視され、「勅語」謄本に拝礼を拒否した第一高等中学校講師の内村鑑三が、その職を追われるという事件も起こりました。国民への浸透には、小学校が最大の役割を担いました。この教育勅語体制は1945年8月の敗戦で、占領軍からの指令と教育関係者自身の反省から、解体を求められます。「勅語」の精神は平和的で、それが軍国主義者に悪用されたと発言する人たちもいました。しかし、日本国憲法教育基本法の公布によって、「勅語」はこれらと矛盾することが明確になりました。そこで、1948年6月、衆議院で排除、参議院で失効確認の手続きが行われました。

 かつて、明治政府は地域共同体の中に包み込まれていた子どもを、共同体から切り離し、「家」の子どもとし、学校教育の中に取り込んでゆきました。例えば、地域共同体の中での子どもの遊び(「めくり」、「子ども手踊り」、「演劇」など)が統制の対象として、禁止令が出され、廃止されました。その代わりに、ルールに基づく競技や体操など、規律・訓練の対象になるものが学校教育の中に取り入れられました。この「身体の調教」、ミシェル・フーコーいうところの近代に特有の「社会の軍事的夢」は、明治初期に始まっています。教育勅語は、その流れの中での徳育の強化による「仕上げ」でした。

 グローバリズムが様々な問題を引き起こしていることは事実です。しかし、だからと言ってかつての世界大戦への道を、もう一度歩みたいと思っている人は多くはないと信じています。そして、たとえその信念に一理あったとしても、そのために手段を択ばなくていいことにはなりません。ごまかしから、真正なものは生まれない。

 私たちは、何を望んでいるのか。一人ひとりの生活が成り立ち、人間として尊重されることは基本だと思います。そのための平和と基本的人権の保証は、経済的安定と同じくらいに重要です。国家の行く先を決める政治、難しいなあ。

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