宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

記憶とあるがままのものとの出会い

 幼児と高齢者には親近性があります。その一つが、繰り返しへの熱意。

 小さな子どもは、飽きずに同じことを繰り返します。同じような喜び方をしながら、何度も何度も「いない いない ばあ」をします。私は5回くらい付き合うと疲れてしまいます。これは何なのかな、と思いました。高齢者は繰り返し、同じ話をします。私たちはつい、「その話聞きました」と言ってしまいます。認知症状が出ている人の場合、何度も同じことを聞いたり、言ったりします。始めて話すときの熱意をもって。そして同じ光景を見ても、その都度、新鮮な驚き方をします。

 彼らは、私たちの記憶が邪魔をしている「体験の一回性」「今を生きる」ことを実現させているのだと思います。幼児は繰り返しの中で、何度も何度も「事実」と出会いながら、外の世界を確認しています。高齢者や認知症状が出ている人たちも、飽きることなく繰り返すことで、「今を生きる」ことをしているのでしょうか。

 クリスティーン・ブライデンさんは若年性アルツハイマー病の診断を受け、後に前頭側頭型痴呆と再診断された人です。彼女は、痴呆を病む人の側から発言し、自らの世界を表現しています。彼女は2冊目の本『私は私になっていく 痴呆とダンスを』(クリエイツかもがわ)の中で、記憶と自分であることの関係をめぐって次のように言っています。

「私たちにとって人生といってもいいような記憶。その記憶という大切な真珠をつないだ糸は切れ、真珠はなくなってしまった。だが私たちは痴呆と格闘しながら新しい真珠を手に入れた」

 痴呆を持つ人たちは、一緒に生きる人と、ただ「今」を強烈に経験することだけができる。だから、この時を大切にすれば共に真の自分を受け入れるということを分かち合える。

「痴呆を持つ人は、ひとりひとりが、生きることについて多くの智慧を持った、贈り物である。その贈り物の美しい箱の紐を解き、開けるのは、本人のまわりにいる人びとだ」

 記憶力は、望ましいものと思われています。しかし記憶は、私たちの生活から新鮮味を奪い、生活を繰り返しのつまらないものにもします。その意味で、まだ記憶力が育ち切れていない幼児や記憶力が衰え始めた高齢者や認知症状を持つ人は、記憶から解放されることで、今あるがままのものと繰り返し接触しているのでしょう。

 J・クリシュナムーティは『自我の終焉―絶対自由への道』(篠崎書林)の中で、「記憶はあるがままのものを理解する障害となる」と言っています。「技術的な事柄の記憶は必要欠くべからざるもの」だけれども、心理的な記憶は「生活の理解や、人間相互の親交に有害な作用を及ぼす」と。心理的な記憶とは、昨日見た梅林の美しさとか、友人の自分に対する態度などです。そういう記憶は、今日見る梅林への感激を薄れさせ、今日のその友人との出会いを邪魔します。

 マインドフルネスとか座禅の境地が目指しているのも、このような心理的な記憶からの解放と言っていいと思います。自分の心を心理的記憶から解き放って、今この瞬間の体験に注意を集中させる。そこにあるがままのものとの出会いが生まれる。大学生時代の一泊二日の座禅体験後、駅のホームでした経験の意味が少し理解できました。駅のホームで帰りの電車を待ちながら、線路に落ちていた紙が風で舞い上がるのを見て、その美しさに見惚れました。そして生きているって素晴らしい、とその瞬間感じました。

 あるがままのものを見るとかあるがままと出会うということは、簡単なことではありません。幼児や高齢者、認知症状を抱えている人が教えてくれているものの一つなのかもしれません。

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