宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

二つの映画から、徳目主義を考える

 思春期を描いた二つの映画を観ました。例によってDVDです。一つは1986年の名作と言われる『スタンド・バイ・ミー』(アメリカ)、もう一つは2015年の日本映画『くちびるに歌を』です。どちらも主題歌が良かった。『くちびるに歌を』はアンジェラ・アキの「手紙~拝啓 十五の君へ~」から生まれた青春小説の映画化ですから当然ですが。『スタンド・バイ・ミー』はスティーヴン・キングの短編『死体(The Body)』が原作ですが、スティーヴン・E・キングの1961年のヒット作「スタンド・バイ・ミー」が主題歌に使われ、映画の題名にもなっています。両方の主題歌の歌詞、そして映画自体からいろいろ考えさせられ、成長における徳目主義の問題を考えてしまいました。

 二つの映画は共に、思春期に悩みを抱えて生きる少年・少女の心の息吹のようなものを伝えてくれます。『スタンド・バイ・ミー』の12歳の少年ゴーディとクリス、『くちびるに歌を』の15歳のなずなとサトル、それぞれが抱えている家族をめぐる痛みは、傍にいる仲間や目指すものによって、決して消えてしまいはしないけれど、今を生きる中に吸収されてしたたかに生きてゆく肥やしにされていると、感じさせてくれました。そこにあるのは、友情の尊さとか、困難から逃げないとかのお題目ではありません。

 生きていく中で、困難は付きものでしょうが、それとどう向き合うかにマニュアルはありません。問題も環境も異なっていて、解決策なんて誰も教えてくれない。アンジェラ・アキの「手紙」の中の言葉、「自分の声を信じて歩けばいいの」が胸に沁みます。これは幾つになっても同じではないでしょうか。

 道徳教育の持つ問題は、お題目主義にあると私は思っています。注入主義ともいいますが、そもそもそれらお題目の「よさ」を「よさたらしめているもの」はどこにあるのでしょうか。これはソクラテスが、徳を徳たらしめているものは何か、と人びとに問いかけ続け、彼に死をもたらしたものでもあります。勇気であれ、賢さであれ、私たちはそれらが徳であるというとき、その背後に「よさ」を読みこんでいます。なぜなら、強盗の「勇気」もあるし、詐欺師の「賢さ」もありますから。でも私たちはそれらを徳とは言いません。それはなぜなのか、ということです。一見共同体主義は、個人を超えた集団を想定することで、「我儘」を超えたよさを確保できているように思えます。しかし、どうなのでしょう。集団は間違わないのでしょうか。ナチスが自らの存続のためにしたことは「よい」と本当に言えるのか。

 プラトンは、徳の問題を、個人のレベルで考えないで、神話の世界につながってゆく国家のレベルで考えました。しかし、神話なしで考えるために、もっと徹底して自己のレベルから考えることはできないでしょうか。自分の心の声に耳を澄ませる感受性を育むことで、それが他者の声にも耳を傾ける姿勢を生み出していくのではないでしょうか。自分の痛みを知ることが、他者の痛みへの感受性にもなります。そしてもう一つの車輪が「あなたは一人ではない」なのです。なぜなら、徳目とは孤島で「一人」で生きているときには、問題にならないので。

 リチャード・ローティは、私たちはみな傷つきやすく苦しみを受けやすい存在である点で平等なのであり、それゆえ残酷さを減らさなければならないと言います。私たちの中の尊重と保護に値する何かとは、人間の中にある非言語的能力、苦痛を感じる能力なのだというのです。そして、リベラルとは他の何よりも残酷であることを恐れる者たちのことだと言います。痛みへの想像力や感受性を基盤とし、かつリベラルは自らの感受性にも疑問を持つ存在なのです。私たちは本当に他者の痛みや他者への辱めを受け止め得ているのか、それらを避ける制度を持っているのか、別の可能性はどこにあるのかと絶えず問いかけてしまう自己懐疑としての連帯を探る存在です。

 徳目を掲げるのでなく、自分を信じて仲間と共に歩み続ける中から、徳目は熟成するのではないでしょうか。二つの映画はそれを描いていると思います。

h-miya@concerto.plala.or.jp