宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

共感する力

 ここのところ毎日、今朝は今年一番の寒さ、という状態が続いています。日中は暖かいのですが、朝晩はめっきり冷え込むようになりました。そうですよね、もう11月も下旬。ああ、年賀はがきを買わなければ、と郵便局へ行くたびに思う時期になりました。まだ、リビングにこたつを作っていません。片づけないとこたつを作れないので、伸ばし伸ばしにしています。でもそろそろやらないと。 

 さて、「思いやり」について、かつては何となく居心地が悪かったのですが、この頃そういう抵抗感は薄れています。かつての日本では「思いやり」というものが折に触れ、徳目として教え込まれました。それは確かに儒教精神によって思想的に裏付けられてはいましたが、それが受け入れられたのは、いくつかの現実的条件があったからだと思います。

 一つは、民族的同質性が比較的に高かったので、言葉(論理)というより、情で分かり合える条件があったこと。それと生産共同体という共に作業をすることで、生活の資を得るという生計の立て方の条件。共同作業という働き方は、相手の動きを見取る能力を持っていた方が効率がいいです。相手の動きを見取ってそれに合わせることが必要であった。さらに、相手の心の動きが分かった方が、より効率がよい。そしてその相手は同じ人間ですから、その心に自分もまた共感するという能力につながっていったのではないでしょうか。当然その内面への共感の育成も目指されていきます。それゆえ、「思いやり」能力の育成の必要性という条件があったと考えられます。

 日本の生産共同体は、足並みをそろえて作業をすることが絶対に必要でした。例えば田植え。早すぎても遅すぎてもいけない。他の人に同調する能力や、他の人の状況を読み取る能力が要求されました。だからこそ、人を「思いやれ」というのが徳目として、絶対必要な条件として訓練されたのではないでしょうか。生存の必要性として「思いやり」能力の育成が肌で感じ取られていたからこそ、「思いやれ」という命令や「思いやりがない」という叱責の言葉が重みを持って受け入れられた。それは強制でもあるから、鬱陶しさを覚えることもありましたが、単なる理想主義的徳目ではなかったので、生き延びるための実質的な徳目としての重さがあったのではないでしょうか。だからうまく生きるためには、その能力を身に付ける必要があり、自分から見につけようという内的動機も生まれる。それが、またよりよく生きる技術にもつながっていた。日本人の安定した精神状態は、共感能力の高さに負っていたと思いますが、それは自分を屹立させない結果、期せずして受けた恩恵とも言えます。

 現代の都市化社会では、生存の必要性は対抗意識と責任意識の育成に偏っています。ディベイト能力の育成など、まさに対抗意識の洗練の訓練です。そして責任というと現代は「自己」責任が強調されます。共感能力は、「何のために必要か」が捉えにくくなっていると言えます。しかし、幸福に生きるためには、共感能力が必要です。人の気持ちが分からないと、人と共にあることは楽しくない。よりよく生きるためにこの能力が要求されます。

 年取ってから共感能力を育てようとしても難しいでしょう。これもある程度訓練ですから、時間が必要です。年をとると、柔軟性も欠けていきます。女性が男性よりも、年を取っても安定した精神状態を保てるのは、一つにこの共感能力のお陰かもしれません。

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