宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

老いと哲学

 以前「老いの哲学」というタイトルで、「老い」というパースペクティブから考えることを書きました。もう一つ、「老い」という状況が哲学的問題、「生きることの意味」にセンシティブにならざるを得ない状況であることを感じています。

 体調がすぐれない高齢者は、「もう助けてくれなくていいのに」「次にまた発作が来たら助けないで欲しい」というようなことを言います。生きながら生きていない感覚を持つのかもしれません。人間は誰でも死に直面している存在ですが、回復困難な病気を抱えていたり内乱や極度の困窮状態にないとき゚、80代後半や90代にならないと、日常的に「死に方」を考えたりはしません。かなり現実的性格の人だと受け取れる方が、口癖ではなく、真剣に自分の死と向き合う瞬間に出あうとき、「老い」というものは人間の根源的条件を実感させる時期なのだと感じます。

 客観的に見て、体力的にもまだ何かあっても回復可能と見える方が、主観的にまいってしまって、「死」を口にする。その飛躍の仕方に何と返答したものか言葉に詰まります。でも、自分の日常性が少しずつ戻ってくる感覚を持つと心が明るくなるようで、日常的に出来たことや面白かったことについて話し始め、立ち直ります。

 若くても基本同じことだなぁと思います。人間の生きる気力や希望は、体力次第、環境次第のような部分があるなぁと。心理的に疲れ果てたり悲観的になったりしても、ご飯が美味しかったり、よく眠れたり、外の空気が気持ち良かったりすると、結構気分が晴れます。その繰り返しが生活。生活の重要性、根源性があります。心の病いは、そこが崩れていると言えるのでしょうか。生きる意味如何の問題ではなく。でも、生きる意味という問題がないわけではありません。

 日本人は現世肯定で、「絶対」の観念を欠くと言われたりします。普遍性や理念へのオブセッションを持たないとも言えるかもしれません。哲学を必要としないのかもしれません。それでも「老い」という状況は、「死」や「生きること」そのものへの問いと向き合う瞬間をもたらす気がします。その問いをどう受け止めるかに関わりなく、問いそのものは、やはり存在する。「老い」という状況は、「存在する」ということのバルネラビリティに触れやすい状態なのだと感じます。

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